タグ: その他
「びわこリハビリテーション専門職大学」は、理学療法学科(定員80名)と作業療法学科(定員40名)の2つの学科で、2020年4月に開学しました。滋賀県唯一の理学療法士・作業療法士の養成大学であり、現在は1年生と2年生の合計183名が在籍しています。専門職大学は、大学制度の中に位置付けられた大学であり、大学として必要な水準
――1763年6月9日に相当大がかりな旅に出られますね。ねらいは何だったのですか。 レオポルト 最初のウィーン旅行が予想以上の成果を上げたので、ウィーン滞在中から、次はもう少し遠方まで足を延ばし、この子の奇蹟を多くの国の方々に知っていただき、あわよくば、将来に向けた何らかの足がかりに出来ればと思うようになりました。この
オリンピック・パラリンピック東京大会を目前に控えた2020年、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によりスポーツ界は甚大な影響を被りました。本来であれば、世界のトップ選手たちの競演やスポーツマンシップを目の当たりにし、スポーツへの興味関心がこれまでになく高まっていたはずです。ところが、五輪大会は延期され、スポーツに関わ
――1762年9月18日に最初のウィーン旅行に行かれていますが、行きはほとんど、ドナウ川の定期便を利用されていますね。そのルートをご説明願えますか。 レオポルト ザルツブルクの北北東の方向にあるパッサウまでは、ドナウ川の水運が使えませんので、そこまでは陸路で行き、そこからリンツを経由してウィーンに行きました。 ――ご家
我が国では1999年に男女共同参画社会基本法が、そして2015年には女性活躍推進法が制定されましたが、世界の中でジェンダー平等に関しては後進国となっています。第4次男女共同参画基本計画では「社会のあらゆる分野において2020年までに指導的地位に占める女性の割合を少なくとも30パーセントとする」目標を掲げましたが、これま
売り手・買い手・世間の三者がwin-win-winになることを指す「三方良し」の考えは、売り手や買い手の満足に加え、社会貢献も重要という近江商人の商売訓だった。可能であれば素晴らしいが、商売にとって社会貢献はコストという足かせにならないかとつい思ってしまう。松下幸之助氏の社会貢献は、企業が地域住民を雇用し地域経済を支え
――ヴォルフガング坊やの神童ぶりを示すエピソードなどで、何か面白いものはありますか。 レオポルト そうですね。私には楽団のトランぺッターのシャハトナーという友人がいたのですが、ある時、勤めのあと、その友人と一緒に家に帰る機会があったんです。私たちは、ヴォルフガングがいつものように、何か紙に書きつけているので、今日はどん
地方の衰退が止まらない。少子高齢化とも相まって公共交通の利用者数は減少し、利便性を優先して車で移動するため、駅前の人通りはまばらとなり消費は地域外に流出、沿線経済の衰退をもたらすという悪循環が続いている。同様の現象は全国的に発生している。近年、近江鉄道は常に存続の危機に面し、かつて近江商人たちでにぎわった面影はなく寂し
――息子さんの音楽の才能に気づかれたのは、どういうきっかけですか。 レオポルト ヴォルフガングには4歳半年上の姉、ナンネルがいましたが、彼女が7歳になったころ、ピアノに興味を示すので、私は仕事の合間に、ピアノを教え始めたわけです。私もその頃には「宮廷室内作曲家」という称号を貰っていましたので、教材として販売されているも
本学は2020年に開学しました関西初のリハビリテーション専門職(理学療法士、作業療法士)を養成する大学であります。専門職大学は「実務家教員」を多数配置していることが最大の強みでありますが、本学も臨床やスポーツの現場、地域で活躍する多数の教員を擁しています。また、机上での学習に加えて地域や施設、スポーツ界等との密接な連携
――1756年1月27日に生まれた息子さんの正式な名前を教えていただけますか。 レオポルト 息子は、ザルツブルク大聖堂で洗礼を受けたのですが、洗礼名簿には、ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガング・テオーフィルス・モーツァルトと記入されています。 ――ずいぶん長い名前ですね。それぞれには、何か意味があるのですか。 レ
幼いころ父や母からいろんな物語を聞きながら眠りについていた。中でも、「近江聖人」の話はいまだに記憶に残っている。話のあらすじはこうである。大洲藩に仕える祖父に連れられて、近江の国(滋賀県)から伊予の国(愛媛県)に移り住んだ中江藤樹少年は、故郷で母が荒れた手で、水仕事をして苦労していることを知り、塗り薬を買い求めて瀬戸内
――1747年に結婚されてから、お子さんは何人お生まれになったのですか。 レオポルト 7人ですね。4人の娘と3人の息子。そのうちの2人だけが、成人しました。ナンネルとヴォルフガングです。 ――資料によると、娘さんが1751年、そして、息子さんが1756年ですね。7人というと、今では、考えられない数ですが、当時はそのくら
――トゥーン家から宮廷オーケストラに移られていますが、仕事内容に変化はあったのですか。 レオポルト いいえ、仕事に関してはそんなに大きな変化はなかったですね。ただ席次は四番目ですから、出世の見込みという点では、あまり期待できないとは覚悟していました。それでも、今までに比べたらオーケストラも大所帯ですし、やはり、やり甲斐
――苦労の甲斐があってザルツブルクに出てこられましたが、学校を中退されていますね。どうされたんですか。 レオポルト いや、困りましたね。そのお話だけは、勘弁願えませんか。実は、私の人生の中でも、最も、語りたくない部分なんです。正直いうと、出席不足だったんです。 ――それにしても、母親との縁を切ってまでザルツブルクに出て
――レオポルトさんは、1737年、18歳の時に、アウグスブルクからザルツブルクに出てこられて、ベネディクト派の大学に入学されていますね。どういう経緯か、お話しいただけますか。 レオポルト はい。私がちょうど16歳になろうとしていた頃、父親が急死しまして、一家は働き頭を失ってしまいました。私は、それまでいた学校を辞めざる
――1756年1月27日、息子モーツァルトさんが生まれました。この将来の偉大な音楽家の誕生を、父親としては、どうご覧になっていたのですか。 レオポルト 正直、自分の子供が後世こんなに名声を博する偉大な作曲家になるとは、当時まったく想像もできないことでした。新生児の死亡率が高かった時代で、長男も次男も生まれて一年たらずで
モーツァルトのコンスタンツェへの最後の手紙は、『魔笛』の評判のよさを自慢する文面で始まる。「6時に、サリエーリとカヴァリエリを馬車で迎えにやって、桟敷に案内したんやけど、…二人がどんなに愛想よかったか、信じられへんほどやで。音楽だけやないで、台本から何から何まで、気に入ったみたい。二人とも『これは一番えらい王侯貴族の前
モーツァルト最後の年がやってきた。手紙はもう、バーデンで静養している妻にしか、書かない。その中に、1791年の9月頃他人が書いたのではないかと疑われている、モーツァルトの手紙がある。その年、モーツァルトは宗教音楽に活路を見出そうと、シュテファン大聖堂の無給の副楽長に就いていた。病気の楽長が死んだあとのポストを目指しての
1790年になると、その年の2月に皇帝ヨーゼフ二世が、物故した。モーツァルトの能力を高く買い、彼に対して理解を示していた皇帝の死は、モーツァルトにとって、大きな痛手と感じられたことだろう。ヨーゼフを引き継ぐのは、彼の弟でトスカーナ大公のレオポルト二世であった。モーツァルトは17歳の時に、3度目のイタリア旅行へ出かけ、就