びわこ学院大発! 近江聖人の教育
幼いころ父や母からいろんな物語を聞きながら眠りについていた。中でも、「近江聖人」の話はいまだに記憶に残っている。話のあらすじはこうである。大洲藩に仕える祖父に連れられて、近江の国(滋賀県)から伊予の国(愛媛県)に移り住んだ中江藤樹少年は、故郷で母が荒れた手で、水仕事をして苦労していることを知り、塗り薬を買い求めて瀬戸内海を渡り、岡山から大坂・京都を徹夜で歩いて明け方に懐かしい近江高島の自宅に辿り着いた。久しぶりの母との対面で、温かく迎えられると思っていた藤樹は、「母恋しさに逃げて帰ってきたか」と厳しく問い詰められ、泣きながら塗り薬を置いて大洲に引き返していった。強い心の武士に成長してほしいという母の願いと、母を思う藤樹少年の親孝行の心を説いた話である。幼年期に聞いたこの話は、私が江戸時代の教育思想を研究する大きな動機となった。
脱藩して近江国高島に帰郷した藤樹は近郊の人々を対象に、後に藤樹書院と称された私塾を開いた。また、人々の疑問に手紙で答える、いわゆる通信教育や自ら出かけて巡回講義をするなど、斬新な教育を実践した。ある時、藤樹よりも4歳年下の大野了佐という青年が父親に連れられて入塾を求めてきた。何を学びたいかと問うと、了佐は医者になりたいと答えた。早速中国の医学書を読ませるが、一日かけて一行を教えても夕食後にはすっかり忘れてしまうほど「愚魯鈍昧」(ぐろどんまい)であったと藤樹は記している。現代ではさしずめ医者には向かないと判断してしまうのであるが、藤樹は漢文で書かれた中国語のテキストが了佐に合わないと考えた。そこで、一人の落ちこぼれの塾生のために、藤樹はわかりやすい医学のテキスト「捷径医筌」(しょうけいいせん)を書き上げた。その後、大野了佐は四国で小児科医として生涯を送ったと伝えられている。中江藤樹が行った学生を大切にする教育は、ここ湖東のびわこ学院大学においても脈々と継承されている。






