関西人になったモーツァルト お金の面では、貧弱やったわー(50)
1790年になると、その年の2月に皇帝ヨーゼフ二世が、物故した。モーツァルトの能力を高く買い、彼に対して理解を示していた皇帝の死は、モーツァルトにとって、大きな痛手と感じられたことだろう。ヨーゼフを引き継ぐのは、彼の弟でトスカーナ大公のレオポルト二世であった。モーツァルトは17歳の時に、3度目のイタリア旅行へ出かけ、就職の活動もしたが、トスカーナ大公には、あっさりと断られた苦い経験があった。そのレオポルト二世が玉座に昇るのである。果たしてチャンスか、ピンチか?試金石は、皇帝の戴冠式への招待であったが、楽長のサリエーリは呼ばれたが、モーツァルトは呼ばれなかった。チャンスの芽はすでに封じられていたのだ。それでも、ここはチャンスと見たモーツァルトは遠路、フランクフルトまで、無謀な賭けに出る。いや、旅の誘惑には勝てなかったと言ったほうがいいかもしれない。そして作戦は、見事に失敗。10月5日の妻に宛てた手紙にこう書いて、万事が首尾よくいかなかったことを認めた。「今日、11時に僕の演奏会あったんや。名誉からゆーたら、もう言うことなし。でも、お金の面では、貧弱やったわー」もちろん、失敗の原因は、自分にはないことも忘れず、付け加えた。「運がわるいことにな、公爵のとこで、でっかい食事会があり、おまけにヘッセンの軍隊の演習もあったんや。こんなふーに、ここに滞在中、いつも邪魔が入る」収入面はともかく、その演奏会では、久しぶりに、モーツァルトは2曲のピアノ協奏曲を披露した。その一曲は、《戴冠式》と名付けられたK537、ニ長調の有名な曲である。実はこの曲は戴冠式のために書かれたものではない。旧作の復活で、モーツァルトにしては格別できのいい作品ではないが、名前が曲を大きくみせた。イメージ戦略の成功である。






