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「パリへ行くのだ!それも直ちに」と、恋の病を父親に一喝されたモーツァルトだが、初恋の人アロイジアにすっかり心を奪われた恋煩いは、そう簡単に治せるものではない。重い足取りでパリに到着したのは、1778年3月24日であった。「僕らの旅は9日半でした。僕らは耐えられないと思いました。こんなにも退屈だったのは、生まれてこのかた
恋は盲目とはよく言ったもので、マンハイムで年を越したモーツァルトは、父親へ初めて出会った少女の印象を次のように報告した。「あの娘の歌はとにかく本当に素晴らしくて、美しくて滑らかな声をしているんだ。あの娘に欠けているのは演技だけで、そのうちどこの劇場でもプリマ・ドンナになれる。」その後アロイジア一家と小旅行に出かけたモー
アウクスブルクを後にした母子は、一路マンハイムへ向かった。1777年の10月末のことである。本書の解説には次のようにある。「ここには音楽家の知り合いも多く、彼の才能は一部の人たちには知れ渡っていたのです。しかも、マンハイムは選帝侯カール・テオドールが治める町で、その宮廷楽団は、マンハイム学派と呼ばれ、ヨーロッパ中にその
ミュンヘンで選帝侯から「空席がない」と就職を断られたモーツァルトは、アウクスブルクに赴き、父レオポルトの若い頃の学友であった当市の市長と面会したが、その息子とは、モーツァルトがイタリアでもらった十字勲章のことで、いささか「不愉快な会話」を経験することになる。事の成り行きは、書簡集に詳しいが、この不快な出来事を忘れさせて
■荻田常三郎 いまから110年前のこと。 大正3年(1914)10月22日午前8時8分、沖野ケ原(現・東近江市南部地区)から翦風号(せんぷうごう)と命名された単葉機が飛び立った。 大西洋に臨む寒村の砂丘で、ライト兄弟が動力付き飛行機の初飛行に成功したのは1903年。そのわずか11年後のことである。もちろん当時のほとんど
ミュンヘンの選帝侯から、就職につき色のいい返事をもらえなかったモーツァルトは、当時ミュンヘンに滞在していたイタリアの音楽家、ミスリヴェチェクを訪ねることにした。初めて彼にあったのは、モーツァルトが14歳の時で、あれから7年の月日が経っていたことになる。ミスリヴェチェクがミュンヘンに滞在していたのは、「梅毒」の治療を受け
母親とモーツァルトは、1777年9月24日の夕刻にはミュンヘンに到着した。解説を少し読んでみよう。「ザルツブルクからそれほど離れていないので、出発の翌日にはバイエルン選帝侯マクシミリアン三世が治める都に足を踏み入れることができたわけです。もちろん、そのねらいはその選帝侯に直接交渉して、宮廷の安定した地位、できれば宮廷作
旅立ちの日は、1777年9月23日であった。ヴォルフガング(モーツァルトのこと)にとっては、久しぶりの旅、しかもうるさい父親なし、監視の目の緩い母親との二人旅とあって、心は軽い。いつもの父親の役割は自分が引き受けるんだと、意気軒昂である。「まるで王子様のような暮らしぶりです。僕たちに足りないものといったら、父さんだけ。
マンハイム・パリ旅行は、モーツァルトにとって、安定した就職先を探し、できることなら好条件で、大都市の宮廷に採用されるよう働きかけるための、『就活旅行』であった。モーツァルトのこれまでの旅は、家族全員で行くか、旅の達人であった父レオポルトに伴われての旅だった。旅の成果を確実なものにするためには、父親の指示が絶対的に必要で
みなさん、夢をお持ちですか。有名なスポーツ選手が、成功の秘訣を聞かれた時、一様に「夢を諦めないことです」と、よくインタビューで答えていますが、生きる元気、やる気を生み出す根本には、やはり夢を持ち続ける大切があるような気がします。仮に、家族で夢を語り合っていて、父親が持つ夢と、息子が持つ夢が、どちらも「プロ野球の選手」な
――1787年5月28日に、臨終を迎えられましたが、最後の見届けをしてくれたのは、どなただったのですか。 レオポルト 私の最後を看取ってくれたのは、娘のナンネル夫妻とブリンガー神父でした。娘夫婦は、いよいよ私の最後の日も近いと感じていたようで、数日前から、泊まり込んで、私の傍にいてくれました。おかげで私は大きな不安を感
――1787年5月10日に、娘さんに最後の手紙を書かれていますが、亡くなる18日前ですね。どんな内容の手紙だったのですか。 レオポルト あの日は、少し体調も戻り、手紙を書く気力が出てきたので、数行ずつ書いては、休憩し、また書き足すような感じで、何とか書き終えることができました。私は、自分の体調を伝え、ジークムント・ハフ
――1787年4月4日付けの息子さんからの手紙が、お父さんが受け取った最後の手紙と聞いていますが。 レオポルト ええ、息子が私の健康状態について、どこからか噂を聞いて、書いてきてくれたんだと思いますが、死の床につく私の不安を和らげようと、お見事な説教をしてくれましたよ。「死は、僕らの人生の真の最終目標ですから、僕はこの
――1785年5月には、息子さんのいるウィーンから、またザルツブルグに戻られていますが、お父さんご自身は、どんな暮らしぶりだったのですか。 レオポルト 実は、前年の1784年に、娘は結婚をして、ザンクト・ギルゲンに移り住んでいましたから、寂しい一人暮らしですよ。寂しさが特に身に沁みるのは、夜ひとり食事を終えて、ぼんやり
――1785年の2月からウィーンを訪問されて、息子さんとお会いになったようですが。 レオポルト ええ、4月の下旬までウィーンに滞在し、息子の生活ぶりをこの目で見ることができました。私の言うことを聞かず、勝手にウィーンに行ってしまった息子のことを、私は当初、どうしても許すことができなかったのですが、所帯を構え、それなりに
――息子さんは、台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテと組まれて、『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』などの名作を書かれていますが、どんな経緯でダ・ポンテと出会われたのですか。 レオポルト 私も、いつ二人が出会ったのかというのは、もちろん分かりませんが、息子が1781年にウィーンでの活動を始めた同じ年に、ダ・ポンテも、
――1784年12月には、息子さんはフリーメイソンへ加入され、レオポルトさんご自身も翌年の1785年4月には、フリーメイソンへ入られていますね。秘密結社のように思われていますが、どんな組織だったのですか。 レオポルト いや、あれは秘密結社だとか、変な宗教団体と思われている人もいるようですが、まったく違います。「自由」「
――故郷からウィーンに戻って、1784年以降は、息子さんはどんな風に生計を立てておられたのですか。 レオポルト あれはもちろん、ウィーンの宮廷で楽長クラスの役職が与えられたなら、喜んで奉職したと思うのですが、そういう話はどこからも出てこなかったので、自分で自分用にピアノ協奏曲を書き、貴族の友人、知人たちに、年間契約でチ
――1783年7月に、ようやく息子さんのお嫁さんと会う機会があったようですね。そのへんのいきさつを教えていただけますか。 レオポルト 息子は私の同意なしで、その前年コンスタンツェと結婚しましたが、向こうから、まあ、仲直りの意図もあってのことか、ザルツブルクに帰って来て、嫁を紹介すると言ってきたのです。私としては、今さら
――ウィーン移住後の息子さんについて、音楽的にはお父さんはどう見ておられたのですか。 レオポルト 作曲を自らすることはもう放棄していましたが、私も音楽家ですから、もちろん、息子が音楽的にどう変わっていくのか、興味は持っていました。なかでも、対位法の勉強を一生懸命やっているという報告は受けていましたので、それをどんな風に