『モーツァルト 父の夢、子の夢』(7)父子の良好な関係に亀裂が走り始める町、マンハイム
アウクスブルクを後にした母子は、一路マンハイムへ向かった。1777年の10月末のことである。本書の解説には次のようにある。「ここには音楽家の知り合いも多く、彼の才能は一部の人たちには知れ渡っていたのです。しかも、マンハイムは選帝侯カール・テオドールが治める町で、その宮廷楽団は、マンハイム学派と呼ばれ、ヨーロッパ中にその名を馳せていました。楽団の規模も大きく、楽団員の質も非常に高い。就職を目指すヴォルフガングにとって、音楽的な意味では、申し分ない土地であったわけです。マンハイムで最初に頼りにしたのは、カンナビヒ家でした。当主クリスチャン・カンナビヒが優秀なヴァイオリニストであり、また優れた作曲家でもあり、さらに宮廷楽団の有力なメンバーでもあったからです。カンナビヒを通して、音楽監督のサヴィオーリと知り合い、その後、サヴィオーリ伯爵を介して選帝侯のお目通しをお願いする作戦を立てていたのです。カンナビヒ家にはさまざまな音楽家が出入りしており、ヴォルフガングはそこで、いろいろな人たちと知己を結ぶことになります。」だが、当初描いていたような作戦通りには事は進まず、選帝侯との面会を済ませたモーツァルトは年を越して、選帝侯の返事をひたすら待った。この間の手紙のやり取りの中で、父レオポルトは、母子の手紙の返信が少なく当地の事情も分からないので、万事ありのままもっとこまめに報告するよう命じたうえ、特にお金の節約の必要性を繰り返し説き、これまでの旅のやり方を難じた。これには、日ごろ従順なモーツァルトもいささか感情的になり、「あれこれ思案しても余計なことであるし、何の役にも立たない」と切り返した。息子のこの父への反抗に、気分を害したレオポルトは、次のように息子を説き伏せた。「そのようなことは、実際なんの熟慮もなしに呑気に考えられてのことで、そしてまぎれもなく軽率に書きつけられている。すべては神の思し召しの通りになるであろうし、なるに違いないということは、ものの道理がわかる人間ならば、キリスト教徒とまでは言うつもりはないが、否定しないだろう。しかしながら、そのことから、結果として私たちはものを見ずに行動し続け、あらゆるものに対して安穏と暮らし、何の備えもせずにただ何かが勝手に天から落ちて来ては飛び込んでくるのを期待してひたすら待つように、ということになるのであろうか」怒りのレベルはどんどん上がり、思慮のない旅の計画を言い放つ息子をこっぴどく非難したうえ、「なんたる絵空事だ、これは!」と怒鳴りつけた。
モーツァルト・バー「キール」
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