滋賀報知新聞の寄稿記事をまとめてご覧いただけます。
――オペラ『後宮からの逃走』では、主人公は捕らわれの身であるコンスタンツェの救出に成功しましたが、息子さんの実生活の話はどんな風に進んだのですか。 レオポルト 以前にも申し上げた通り、私はウェーバー家の連中を、誰一人信頼をしておりませんので、息子が何を言おうと、一切信じられないのです。あいつは、1781年の12月になっ
――息子さんがウィーンに行かれてから、お二人の関係はどうなったのですか。 レオポルト 私は、息子を決して許してはいませんでしたが、息子は私の説得にまったく応じず、ウィーンでの生活を始めたわけですから、私としてももう、手の打ちようがありません。私は当時62歳で、もう老年の域に入っていました。衛生状態のよくない当時にあって
――大司教と息子さんの決裂は、結局どんな結論をみたのですか。 レオポルト いや、正直言うと、私はこのことを思い出したくもないのです。言葉にできない不快の念と許しがたいことに出合った時に味わう憤怒の感情が、どうしても心の奥底から湧き上がってくるのを止めることができないのです。息子は私を、仲の良かった姉を、そして心から応援
――息子さんが大司教と大喧嘩したのは、どんな経緯があってのことなんですか。 レオポルト 当時、大司教は、お父様の具合が悪いというので、お見舞いのためウィーンに滞在なさっていたのですが、当地の貴顕の方々とのお付き合いの関係もあり、ぜひとも音楽会が必要になりました。そのためには、どうしても息子が中心におらねばならず、約束の
――オペラ『イドメネオ』は、どんな風に作曲が進められたのですか。 レオポルト 台本はザルツブルグに住むイタリア人司祭のヴァレスコが担当したこともあって、私がヴォルフガングとの連絡役を演じなければなりませんでした。ヴォルフガングは1780年の11月7日にミュンヘンに着き、役柄に合わせて作曲を始めていたので、息子の台本に対
本学スポーツ教育学科は、1年次から地域より多くの学びの場をいただきながら地域と連携した実践教育に力を入れています。大学で学ぶ知識や理論を実際の現場に活かすことで、社会の反応を肌で感じ、知見を広げることで企画する楽しさや多角的に考える力が身につけられるのも本学科ならではの特長です。 私が担当する地域スポーツマネジメントゼ
――マンハイム・パリ旅行から帰られてからの息子さんの日々の様子を教えてください。 レオポルト 私は、帰宅した息子を抱きしめ、その苦労をねぎらいましたが、私の妻の死については、当時の状況を確認はしましたが、息子の責任を追及することはいたしませんでした。ヴォルフガングには、これからの家計の一端を担ってもらわなければならない
――妻を亡くされても、息子さんはパリで活動を続けられたのですか。 レオポルト いや、あいつの頭にあったのは、無理矢理引き離されたと思っているアロイジアのことばかりなのです。もちろん、母親の死は、大きな打撃だったでしょう。でも、それが息子のアロイジアへの気持ちに変化を起こすようなことはなかった。グリム男爵からも見捨てられ
――息子さんをパリに行かせたのは、失敗だったとおっしゃってましたが。 レオポルト もともと、マンハイムがうまく行かなかったら、パリに行くものと決めてはいましたが、アロイジアの出現で、事態は大きく変化しました。とりあえず息子をアロイジアから遠ざける必要があったので、予定を前倒しして、パリへ行かせました。それにパリには、グ
――マンハイムでは、息子さんは初めての恋愛を経験されたそうですね。 レオポルト よりによって、私が最も毛嫌いしている女の娘に恋などしよって。計画が無茶苦茶になってしもうたわ!私は未だに息子の行動が許せないのです。私は、息子には息子の才能を支え、彼の健康に気を配り、モーツァルト家全体が幸せに暮らせるような女性をあてがう予
――ミュンヘンの次にアウクスブルクを訪ねられてますね。 レオポルト ええ、私の生まれ故郷ですから、昔の学友で今は市長になっているランゲマンテルさんを訪ねてみるように息子に言いました。またヴォルフガングがピアノ職人のシュタインさんの作った素晴らしいピアノを直接見て、何か感じてくれるとうれしいなあと思っていたのです。 ――
――最初の町、ミュンヘンでは、宮廷の職を手に入れられなかったと聞いていますが。 レオポルト ええ、その通りです。当地の選帝侯から「空席がない」と断られたようです。ただ、私には、この返答は想定内のことでした。ミュンヘンとザルツブルクは隣町も同然です。ザルツブルクを飛び出した若い音楽家を隣町ですぐさま雇ったとなると、選帝侯
――今回の旅は9月23日に出発され、最終的には、パリにまで足を延ばされていますが、どんな計画を立てておられたのですか。 レオポルト 位置づけとしては、もちろん、息子の就職の旅です。従って、ヴォルフガングが大都市で確固とした地位を手にすることができたら、そこで旅は終わります。だが、この旅は、結果として、一家にとり、最悪の
――いよいよ、マンハイム・パリ旅行のお話をお聞きしたいと思います。確か、1777年の8月に息子さんが大司教に「離職を認めてくださるよう」との請願書を書かれていますが、その意図は何だったのですか。 レオポルト あれは息子から大司教への請願書の形式を取っていますが、私が書いたものです。それに先立つ3月にも、6月にも、大司教
――1775年3月にミュンヘンからザルツブルクに帰られてからは、しばらく故郷で過ごす日々が続きますが、どれくらい続いたのですか。 レオポルト 息子と母親がマンハイムやパリ方面への旅に出る1777年9月までのほぼ2年半です。 ――では、息子さんは宮廷での仕事を粛々とされていたのですね。 レオポルト 何かいい機会があればと
――1774年の冬にミュンヘンに行かれてますが、目的は何だったのですか。 レオポルト ミュンヘンの選帝侯、マクシミーリアン・ヨーゼフ三世さまから、有難いことにオペラの注文を受けまして、夏ごろから作曲に取りかかり、仕上げと上演のためにミュンヘンに参りました。仲介をしてくださったのは、キームゼーの大司教のツァイル伯爵さまで
私が養護教諭(保健室の先生)の仕事を知ったのは小学校低学年の頃です。当時、お世話になった養護教諭が、白衣を着て髪の毛を一つに束ね、学校の中を颯爽(さっそう)と歩かれている姿に勇ましさと頼りがいを感じたことを思い出します。今から考えると、まさに「学校の中で子どもたちの健康を守る専門職教員」そのものであったと考えます。その
――イタリア旅行のあと、3度目のウィーン旅行もされていますが、成果はあったのですか。 レオポルト 前回のインタビューの終わりに、マリア・テレージアさまの我々一家に対する見方をご紹介しましたが、私どもが前もって「乞食のように世間を渡り歩く連中」と思われていることを知っていれば、もちろん、旅はしませんでした。事実、宮廷で女
健康寿命を伸ばすためには、体力の維持増進が重要な要因であることはよく知られています。近年、体力に関係するキーワードとしてフレイルやロコモ、サルコペニアがあり、これらの発症予防が介護予防につながると言われています。本学では2020年から、介護予防を念頭に健康維持を目的にした「びわこいきいき体操教室」を開催し、地域の老人会
――イタリアには都合3回行かれていますが、2回目、3回目はどんな様子だったのですか。 レオポルト いずれも、オペラのオファーをいただいて、それを完成させるために、ミラノに行きました。2回目は、マリア・テレージアさまのご子息のフェルディナント大公の婚儀のための祝典劇で、女帝からの正式の申し込みでした。そして3回目は、1回