「ステージパパ、レオポルトの本音」 オペラ『後宮からの逃走』(34)
――息子さんがウィーンに行かれてから、お二人の関係はどうなったのですか。
レオポルト 私は、息子を決して許してはいませんでしたが、息子は私の説得にまったく応じず、ウィーンでの生活を始めたわけですから、私としてももう、手の打ちようがありません。私は当時62歳で、もう老年の域に入っていました。衛生状態のよくない当時にあって、若死にはそう珍しくなかったのですから、今でいう還暦を越えた人間は、死の一歩手前をさまよい歩く人。その後も息子は手紙をよこしてくれてはいましたが、その手紙もだんだん短くなり、頻度も減っていきました。まあ、逆に言うと、ヴォルフガングはウィーンで生活するのに必死で、私にかまっている暇もなかったのでしょう。それはそれで仕方ないことだと諦めていましたが。ただ、息子はウィーンでの初オペラに関することでは、時々長々とした手紙を書いてきました。1781年の秋のことです。
――1781年というと、あのトルコを舞台にした『後宮からの逃走』ですか。
レオポルト そうです。当時ウィーンでは、ドイツ語によるオペラ「ジングシュピール」熱がひと頃ほどではありませんが、微かに残っていたのです。そこで劇場監督のローゼンベルク伯爵との交渉の結果、息子がドイツ語オペラを一つ書くことになりました。題材は、近くて遠い国、トルコの後宮を扱ったもの。ウィーンの人たちにとって、異文化トルコは、興味を引き立てられるテーマで、息子は台本がすっかり気に入ってしまいました。主人公の一人の名前は、後宮に閉じ込められている女性、コンスタンツェ。その女性を救うために恋人ベルモンテが救出作戦を実行するという筋書きですが、息子にはこのオペラに熱を入れる別の理由がありました。実は、当時息子は、ウェーバー家の三女コンスタンツェと付き合っており、ウェーバー家に閉じ込められているコンスタンツェを救い出そうと懸命に努力していたのです。まさに、オペラと実生活が重なっていたわけです。
――それは面白いですね。
レオポルト 息子は、万事において、仕事と遊びが重なっており、真面目な話の中に遊びがあり、遊びの中に必死な努力を入れ込むのです。たぶん、作曲が楽しくて仕方ないのだと思います。息子は私にこんなことを書いてきたのですよ。「激情というものは、それが烈(はげ)しくあろうとなかろうと、決して嫌悪感を催すほどに表現されてはいけません。そして音楽はどんな恐ろしい場面でも、決して耳障りであってはならず、やはり楽しませなくてはなりません。つまり、つねに音楽であることが必要です。」我が息子ながら、なかなかいい言葉じゃ、ありませんか!
モーツァルト・バー「キール」
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