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――1785年の2月からウィーンを訪問されて、息子さんとお会いになったようですが。 レオポルト ええ、4月の下旬までウィーンに滞在し、息子の生活ぶりをこの目で見ることができました。私の言うことを聞かず、勝手にウィーンに行ってしまった息子のことを、私は当初、どうしても許すことができなかったのですが、所帯を構え、それなりに
新型コロナによる移動制限も解除され、国外からも多くの外国人が日本を訪れるようになりました。その結果、日本に在留する外国人の数も過去最多となり、令和5年6月末の時点で320万人を超えています。そしてここ滋賀県でも、令和4年12月末の時点でおよそ3万6千人の外国人が生活しており、そのうちブラジル出身者が長年最多を占めていま
――息子さんは、台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテと組まれて、『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』などの名作を書かれていますが、どんな経緯でダ・ポンテと出会われたのですか。 レオポルト 私も、いつ二人が出会ったのかというのは、もちろん分かりませんが、息子が1781年にウィーンでの活動を始めた同じ年に、ダ・ポンテも、
びわこリハビリテーション専門職大学は、滋賀県で唯一のリハビリテーション職を養成する大学として2020年4月に開学しました。今年度、1年生から4年生までの学生が揃い、学内は活気に満ちあふれております。そして、現在の理学療法学科と作業療法学科に加えて、来年4月に言語聴覚療法学科が新設されます。これにより、本学はより一層幅の
――1784年12月には、息子さんはフリーメイソンへ加入され、レオポルトさんご自身も翌年の1785年4月には、フリーメイソンへ入られていますね。秘密結社のように思われていますが、どんな組織だったのですか。 レオポルト いや、あれは秘密結社だとか、変な宗教団体と思われている人もいるようですが、まったく違います。「自由」「
「特別支援教育」は、さまざまな教育的ニーズをもつ子どもたちに応じた支援を行い、障がいのある子どもと障がいのない子どもができるだけ同じ場で共に学ぶインクルーシブな教育を目指しています。互いを認め合いコミュニケーションのとれる人を育成し、多様性を尊重するだれもが生きやすい社会を作っていくことが、特別支援教育の大きな目標です
――故郷からウィーンに戻って、1784年以降は、息子さんはどんな風に生計を立てておられたのですか。 レオポルト あれはもちろん、ウィーンの宮廷で楽長クラスの役職が与えられたなら、喜んで奉職したと思うのですが、そういう話はどこからも出てこなかったので、自分で自分用にピアノ協奏曲を書き、貴族の友人、知人たちに、年間契約でチ
2020年に東京パラリンピックが開催され、努力を積み重ねてきた選手達の素晴らしい活躍が日本中に勇気と感動を与え、障がい者スポーツを多くの方に知ってもらうきっかけになったことと思います。滋賀県内の地域でも複数の障がい者スポーツが実施されており、重い障がいのある方のスポーツとして考案されたパラリンピックの公式種目である「ボ
――1783年7月に、ようやく息子さんのお嫁さんと会う機会があったようですね。そのへんのいきさつを教えていただけますか。 レオポルト 息子は私の同意なしで、その前年コンスタンツェと結婚しましたが、向こうから、まあ、仲直りの意図もあってのことか、ザルツブルクに帰って来て、嫁を紹介すると言ってきたのです。私としては、今さら
私たちは教育学といえば欧米の教育学者の理論や思想を引用するのが一般的ですが、日本の歴史や文化の中でも、子どもの成長や発達に関して、鋭く観察した人物も少なくありません。例えば、聖徳太子は「人、はなはだ悪しきものすくなし。よく教ふるをもて従ふ」と憲法17条で記したとされています。古代における人間観察の一例です。 室町時代の
――ウィーン移住後の息子さんについて、音楽的にはお父さんはどう見ておられたのですか。 レオポルト 作曲を自らすることはもう放棄していましたが、私も音楽家ですから、もちろん、息子が音楽的にどう変わっていくのか、興味は持っていました。なかでも、対位法の勉強を一生懸命やっているという報告は受けていましたので、それをどんな風に
高齢化や慢性疾患の増加に伴い、リハビリテーションの重要性がますます認識されています。その中で地域に根差し、地域の医療福祉の様々な機関と手を携えて教育と研究を提供するリハビリ関係専門職大学が、びわこリハビリテーション専門職大学です。 当大学では、地域との緊密な連携を図るべく、地域の病院や福祉施設と積極的にパートナーシップ
――オペラ『後宮からの逃走』では、主人公は捕らわれの身であるコンスタンツェの救出に成功しましたが、息子さんの実生活の話はどんな風に進んだのですか。 レオポルト 以前にも申し上げた通り、私はウェーバー家の連中を、誰一人信頼をしておりませんので、息子が何を言おうと、一切信じられないのです。あいつは、1781年の12月になっ
春先から移動制限もなくなり、学生たちから旅行やライブなどに出かけている話をよく耳にするようになりました。そのような話を聞くたびに、少しうれしいような、ほっとするような気持ちになります。3年間、先が見えない中で青春時代を過ごさざるを得なかった彼らにとって、やっと春が来たということでしょう。季節はすでに初夏を迎えていますが
――息子さんがウィーンに行かれてから、お二人の関係はどうなったのですか。 レオポルト 私は、息子を決して許してはいませんでしたが、息子は私の説得にまったく応じず、ウィーンでの生活を始めたわけですから、私としてももう、手の打ちようがありません。私は当時62歳で、もう老年の域に入っていました。衛生状態のよくない当時にあって
私は、近江商人の三大発祥の地のひとつである「日野商人」の末裔になります。実際、私の父は日野から大阪の呉服問屋のお店(たな)に丁稚奉公し、いわゆる「のれん分け」の後、大阪で呉服屋をしておりましたが、先の大戦で店をたたみ故郷の日野町に疎開し地元の製薬会社に勤務しておりました。私の同級生も、土地柄から殆どの同級生が縁故で全国
――大司教と息子さんの決裂は、結局どんな結論をみたのですか。 レオポルト いや、正直言うと、私はこのことを思い出したくもないのです。言葉にできない不快の念と許しがたいことに出合った時に味わう憤怒の感情が、どうしても心の奥底から湧き上がってくるのを止めることができないのです。息子は私を、仲の良かった姉を、そして心から応援
約束の仕方が「今日も遊ぼう」から「今日は遊べる?」に変化してずいぶん経ちましたが、大人になった今でも幼い頃の遊びを思い出すことがあるかと思います。いつの時代の子どもにとっても遊びの中での体験は、その後の発達に大きく影響します。 想像力を触発し生活空間を広く豊かなものにする子どもの遊びは、からだを使った集団でのものが多い
――息子さんが大司教と大喧嘩したのは、どんな経緯があってのことなんですか。 レオポルト 当時、大司教は、お父様の具合が悪いというので、お見舞いのためウィーンに滞在なさっていたのですが、当地の貴顕の方々とのお付き合いの関係もあり、ぜひとも音楽会が必要になりました。そのためには、どうしても息子が中心におらねばならず、約束の
2022年4月1日、長崎大学から結核予防会複十字病院を経てびわこリハビリテーション専門職大学に着任した。着任後、滋賀医科大学呼吸器内科主催の市民公開講座で「息切れと仲良く暮らそう」のタイトルで講演をさせて頂く機会をえた。会場のチップルテラスには、満席の市民で溢れていた。講演内容は慢性閉塞性肺疾患(COPD)、間質性肺炎