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アウクスブルクを後にした母子は、一路マンハイムへ向かった。1777年の10月末のことである。本書の解説には次のようにある。「ここには音楽家の知り合いも多く、彼の才能は一部の人たちには知れ渡っていたのです。しかも、マンハイムは選帝侯カール・テオドールが治める町で、その宮廷楽団は、マンハイム学派と呼ばれ、ヨーロッパ中にその
滋賀報知新聞社編集局では、「わが家自慢のペット特集2025」の掲載希望者を募集しています。締め切りは12月5日まで。 (1)ペットの名前、(2)今年の抱負、(3)飼い主のペンネーム、(4)お読みいただいている滋賀報知新聞(本紙、五個荘・能登川版、愛知ニュース、蒲生ニュース、八幡特報のいずれかより選択。複数選択可)を記入
ミュンヘンで選帝侯から「空席がない」と就職を断られたモーツァルトは、アウクスブルクに赴き、父レオポルトの若い頃の学友であった当市の市長と面会したが、その息子とは、モーツァルトがイタリアでもらった十字勲章のことで、いささか「不愉快な会話」を経験することになる。事の成り行きは、書簡集に詳しいが、この不快な出来事を忘れさせて
鮎は9月から10月にかけて琵琶湖に流入する河川の河口部において産卵します。愛知川も今が産卵の盛期ですが、特に、湖岸の河口部から葉枝見橋までの区間で多く産卵します。 産卵は水深3センチメートルくらいまでの浅瀬にある砂利に産卵しますが、砂利にコケが付着したり、砂利が底に固着しているとうまく卵がくっつかず、産卵の効果が低下し
■荻田常三郎 いまから110年前のこと。 大正3年(1914)10月22日午前8時8分、沖野ケ原(現・東近江市南部地区)から翦風号(せんぷうごう)と命名された単葉機が飛び立った。 大西洋に臨む寒村の砂丘で、ライト兄弟が動力付き飛行機の初飛行に成功したのは1903年。そのわずか11年後のことである。もちろん当時のほとんど
ミュンヘンの選帝侯から、就職につき色のいい返事をもらえなかったモーツァルトは、当時ミュンヘンに滞在していたイタリアの音楽家、ミスリヴェチェクを訪ねることにした。初めて彼にあったのは、モーツァルトが14歳の時で、あれから7年の月日が経っていたことになる。ミスリヴェチェクがミュンヘンに滞在していたのは、「梅毒」の治療を受け
母親とモーツァルトは、1777年9月24日の夕刻にはミュンヘンに到着した。解説を少し読んでみよう。「ザルツブルクからそれほど離れていないので、出発の翌日にはバイエルン選帝侯マクシミリアン三世が治める都に足を踏み入れることができたわけです。もちろん、そのねらいはその選帝侯に直接交渉して、宮廷の安定した地位、できれば宮廷作
さまざまな職業人が集い、地域奉仕活動に尽力する「ロータリークラブ」が主催する「ロータリー青少年指導者養成プログラム(RYLA)」にこのほど、八日市南ロータリークラブの推薦で弊紙記者が参加した。その体験記を3回に分けて紹介していきたい。。(上は5月25日付で掲載)(中は8月12日付で掲載)(矢尻佳澄) 3日目になると皆つ
旅立ちの日は、1777年9月23日であった。ヴォルフガング(モーツァルトのこと)にとっては、久しぶりの旅、しかもうるさい父親なし、監視の目の緩い母親との二人旅とあって、心は軽い。いつもの父親の役割は自分が引き受けるんだと、意気軒昂である。「まるで王子様のような暮らしぶりです。僕たちに足りないものといったら、父さんだけ。
マンハイム・パリ旅行は、モーツァルトにとって、安定した就職先を探し、できることなら好条件で、大都市の宮廷に採用されるよう働きかけるための、『就活旅行』であった。モーツァルトのこれまでの旅は、家族全員で行くか、旅の達人であった父レオポルトに伴われての旅だった。旅の成果を確実なものにするためには、父親の指示が絶対的に必要で
みなさん、夢をお持ちですか。有名なスポーツ選手が、成功の秘訣を聞かれた時、一様に「夢を諦めないことです」と、よくインタビューで答えていますが、生きる元気、やる気を生み出す根本には、やはり夢を持ち続ける大切があるような気がします。仮に、家族で夢を語り合っていて、父親が持つ夢と、息子が持つ夢が、どちらも「プロ野球の選手」な
さまざまな職業人が集い、地域奉仕活動に尽力する「ロータリークラブ」が主催する「ロータリー青少年指導者養成プログラム(RYLA)」にこのほど、八日市南ロータリークラブの推薦で弊紙記者が参加した。その体験記を3回に分けて紹介していきたい。(中は8月12日付で掲載)(下は8月17日付で掲載)(矢尻佳澄) このプログラムには、
――1787年5月28日に、臨終を迎えられましたが、最後の見届けをしてくれたのは、どなただったのですか。 レオポルト 私の最後を看取ってくれたのは、娘のナンネル夫妻とブリンガー神父でした。娘夫婦は、いよいよ私の最後の日も近いと感じていたようで、数日前から、泊まり込んで、私の傍にいてくれました。おかげで私は大きな不安を感
――1787年5月10日に、娘さんに最後の手紙を書かれていますが、亡くなる18日前ですね。どんな内容の手紙だったのですか。 レオポルト あの日は、少し体調も戻り、手紙を書く気力が出てきたので、数行ずつ書いては、休憩し、また書き足すような感じで、何とか書き終えることができました。私は、自分の体調を伝え、ジークムント・ハフ
――1787年4月4日付けの息子さんからの手紙が、お父さんが受け取った最後の手紙と聞いていますが。 レオポルト ええ、息子が私の健康状態について、どこからか噂を聞いて、書いてきてくれたんだと思いますが、死の床につく私の不安を和らげようと、お見事な説教をしてくれましたよ。「死は、僕らの人生の真の最終目標ですから、僕はこの
■「征露」を刻む石造物など 記念碑にかぎらず、「征露記念」として奉献されたものは、市内の他の神社にも見られる。 皇美麻神社(八日市町)には御本殿に向かい合って座る一対の狛犬がある。 狛犬の台座正面には「奉献」との文字が刻まれているが、裏に回ってみると左右両方の台座に「征露記念」の文字が深く刻まれている。向かって右の台座
■国運を賭ける 明治37(1904)年2月10日。 当時、南下し勢力を拡大しようとするロシアに対し、日本が宣戦布告を行った。今年はその120年目に当たる。 翌明治38年3月まで、日露間で朝鮮半島・中国東北部の支配権をめぐり厳しい戦いがつづた。日本では100万人以上の兵士が大陸に送られ、戦死者8万4千人余、戦病傷死者14
地域おこし協力隊の任期も残すところあと3ヶ月となりました。 永源寺地区に移住して3年を振り返り、これまでの反省と所管、今後の豊富について綴りたいと思います。 「林業振興」というテーマで活動をさせてもらってきましたが、私はその中でも木材利用を中心に活動してきました。地場の森林資源を積極的に活用することで山主さんから林業事
2022年9月に近江八幡市地域おこし協力隊に着任し、「芸術による地域振興」をミッションに1年半ほど活動をしてきました。具体的には、参加者同士がおしゃべりしながら作品を楽しむ「対話型鑑賞プログラム」を小学校・市民・市職員向けに実施しました。また、秋に市内で開催される現代アート展に足を運んでもらうためスタンプラリーを企画し
私は、2022年7月に大阪市から移住しました。前職は住宅の設計/インテリアデザイナーで、現在は観光分野の協力隊をしています。活動スタート時に出会ったのが「暮らし観光」という言葉。 暮らし観光とは、これまで当たり前とされてきた、名所旧跡や温泉を巡るような観光ではなく、その地域独自の暮らしや地元の人に親しまれているお店や食