中島 伸男
■国運を賭ける
明治37(1904)年2月10日。
当時、南下し勢力を拡大しようとするロシアに対し、日本が宣戦布告を行った。今年はその120年目に当たる。
翌明治38年3月まで、日露間で朝鮮半島・中国東北部の支配権をめぐり厳しい戦いがつづた。日本では100万人以上の兵士が大陸に送られ、戦死者8万4千人余、戦病傷死者14万3千人を出した。明治維新を経てようやく近代国家の仲間入りを果たしたわが国が大きな犠牲を払いつつ際どい「勝利」をえた戦争であった。
日露戦争を前にした日本の歳出規模は2億円程度であったが、「17億円の軍事費を使い、うち約13億円を国債(うち外債=外国からの借金約7億円、内債約6億円)で、また3億2千万円弱を増税で賄った(『愛東の歴史』)」という。
『八日市市史』第四巻、東近江市史『愛東の歴史』第二巻、東近江市史『能登川の歴史』第三巻などに、地域別(一部)の戦死者・戦病死者数をはじめいくつかの小学校の新築計画が中止されたことなどなど、東近江市各地域での厳しい状況が著述されている。
ちなみに一部地域について従軍者・戦死者数について紹介すると、旧平田村(東近江市平田地区)の従軍者数は81名で、うち9名が戦死、旧市辺村は79名が従軍し8名が戦死、旧中野村は86名が従軍、7名の戦死、旧玉緒村の従軍者は88名で7名が戦死されたという(『八日市市史』第四巻)。
もちろん、その数字は今次太平洋戦争の悲惨とは比較するまでもないかも知れない。太平洋戦争では、陸海軍をあわせ旧八日市市域のみでも1139名の戦死者を出している(『滋賀県史』昭和編)。しかし、いずれしろ他国と戦い一般市民をも巻き込んでの多くの犠牲者を出す戦争は決してあってはならない。
そのような思いを抱きつつ、これまで私は折に触れ、日露戦争当時をしのぶ石造物などの存在に関心を抱いてきた。現段階で知り得た事物を以下に紹介させて頂く。
■「征露紀念」の碑
野々宮神社正面参道を進むと、左手に自然石の碑が建てられている。刻まれた文字は少し読みにくいが、「征露紀念」と読み取れる。文字が読み取りにくいのは、一旦、刻まれた文字がコンクリートで埋められたためである。
この碑は、もとは社務所裏の庭園に庭石のようなかたちで横たえてあった。平成14年、新社務所建設工事にさいして裏庭整備が行われたとき、文字をコンクリートで埋めた石が見つかったのであった。石材店にコンクリートを取り除いてもらったところ、「征露紀念」の文字が現れた。そして、碑の裏面には、明治39年という文字とともに19名にわたる人々の氏名が刻まれていることが分った。
日露戦争に従軍し帰郷した金屋地区の人々により、神社に建立・奉納された碑だったのである。おそらく、太平洋戦争終戦直後に「征露紀念」(ロシアに勝利した)という文字について、進駐連合軍に咎められることを恐れこれを撤去したものと思われる。






