甲賀忍者の末裔が実像語る
◇甲賀
甲賀流忍術発祥の地である滋賀県は、究極のクールジャパンコンテンツと言われている「ニンジャ」を国内外にアピールし、誘客につなげようと、忍術ゆかりの自治体とともに日本忍者協議会を発足させた。この一方で、世に共通する「忍者」は、奇想天外な忍術を駆使する超人的なイメージで、実像は闇に包まれている。そこで、尾張徳川家に仕えた甲賀忍者の末裔で、甲賀忍術研究会の前会長の渡辺俊経(としのぶ)さん(78)=甲賀市在住=に、知られざる実像を聞いた。(高山周治)
渡辺さんによると、「甲賀忍者」の誕生は、室町幕府の九代将軍、足利義尚が長享元年(一四八七)、南近江を支配した六角高頼を攻めた長享の乱(鈎の陣)にさかのぼるという。
甲賀に逃げ込んだ高頼を支援した甲賀武士は、複雑な山岳地形を巧みに利用して神出鬼没のゲリラ戦を展開し、全国の大名で構成した幕府軍を翻弄した。これが兵たちによって「甲賀の忍び」として、全国各地へ喧伝された。
甲賀忍者の結束力発揮した家康の「神君甲賀伊賀越え」江戸期は幕府・各藩の忍び役
その後の特筆すべき活躍は、本能寺の変直後、徳川家康が織田信長の招きで滞在していた堺(大阪府堺市)から本拠の岡崎(愛知県岡崎市)までの脱出支援があげられる。一般に「神君伊賀越」と呼ばれる逃避行は、伊賀を通ったのが通説とされてきた。
しかし、実際のところ、小川(信楽)~加太峠(三重県亀山市)間の道のりが不明なことや、前年に同盟者である信長による伊賀侵攻(天正伊賀の乱)で家康を支援できるほどの有力家は壊滅していたことから、渡辺さんは「甲賀武士のち密な連携で、甲賀郡内を一気に移動した」と推測し、「神君伊賀越え」でなく「神君甲賀伊賀越え」を提唱する。
関ヶ原の戦いでは、家康側の東軍の最前線・伏見城に甲賀武士約百人が入城した。伏見城(京都市)は千八百人の守備兵で、西軍四万人を相手に十日以上耐えたのち落城し、西軍の進軍を遅らせた。
この功績で、伏見城の生き残りと遺族は家康に召し抱えられ、「甲賀百人組」として江戸城大手門の警備を担うようになる。
さらに家康は幕府だけでなく、親藩(尾張、紀伊)や譜代大名(岸和田)にも甲賀武士の採用を取り持った。このうち渡辺さんの家系は幕末までの二百年間、尾張徳川家に諜報活動で従事する忍びとして仕え、明治維新を迎えた。
「『甲賀忍者』とは、高い知識と技術力、見識もった甲賀武士を投影した姿」
名古屋城に在勤するのは頭領の木村家のみで、渡辺家を含む五家は、平常は甲賀に在住し、年に一度正月前後に鉄砲指南役として登城し、もし急な呼び出しがあれば駆けつけた。諜報に従事する忍者の存在は伏せられ、知るのは幹部数人だけ。ただし、「この者が実は忍びである」という極秘文書が、尾張徳川家に残っている。
渡辺さんは「甲賀武士は単独で超人的な力をもっていたのでない。『甲賀忍者』とは高い知識(識字率、天文学など)と技術力(薬学、火薬など)、合議制の自治組織「甲賀郡中惣」による結束をもっていた甲賀武士が名もなく活躍した結果を投影する姿だ。一人ひとりの力は突出していなくても、支え合うことで、困難な状況を突破した」と、現代社会にも通じる忍者像を描く。












