大津市に落とされた模擬原爆
◇大津
米軍は戦争末期の昭和二十年(一九四五)七月二十四日、京都への原爆投下計画の一環で、大津市内に一発の模擬原爆を落とした。この空襲は軍事機密のため長らくベールに包まれていたが、近年、少しずつ明らかになり、県内の空襲に詳しい県立長浜北星高校教諭、水谷孝信氏が二年前、全容解明する書籍を刊行した。広島原爆忌の八月六日、同氏が大津市歴史博物館の平和祈念展で解説した。
投下された模擬原爆「パンプキン」は、長崎型の原爆「ファットマン」と同じく直径一・五メートル、長さ三・二メートル、重さ五トンで、五十発製造された。
ウランを使った広島型でなく、プルトニウムを使った長崎型を摸したのは、戦後の核開発は、大量生産に適したプルトニウムが、主流になるとにらんでいたため。
模擬原爆を投下訓練で使ったのは、絶対機密で結成された原爆投下チーム「509混成群団」。練習の重点は、原爆の炸裂に巻き込まれぬよう、投下点からの一刻も早い離脱だった。
しかし、飛行スピードを上げるのに伴い、爆弾が落下時に描く放物線が大きくなって、投下目標からそれてしまう。このため、投下のタイミングの把握も、重点課題のひとつだった。
訓練は一九四五年七月二十日から始められ、四十九発(一発は失敗)の模擬爆弾が原爆投下予定都市に近い軍需工場などに投下され、大津市には七月二十四日朝に投下された。
この日、太平洋・テニアン島から西宮市へ向ったB―29は、曇天による視界不良で断念、攻撃目標を大津市へ変更した。乗組員は途上でおそらく、原爆投下予定地に入っていた京都市(梅小路)を確認しながら、東洋レーヨン石山工場上空に達し、模擬原爆を投下した。
模擬原爆といえども、充填した火薬の破壊力はすさまじく、爆心地には直径二十メートルの大穴があき、百二十人(死者十六人、負傷者百四人)もの人が亡くなったり、負傷した。瀬田川を挟んだ民家でも、爆風による被害があったという。
なお、最終的に京都は原爆投下都市から外れたが、大津市の模擬原爆投下の七月二十四日時点では、京都案がまだ生きていたことがうかがえる。
ちなみに県内の空襲犠牲者(死者)は、県の把握では昭和二十年五月十四日から八月六日までの五十人余りだが、国の記録の百一人と開きがあり、不十分な情報しかない。
これについて水谷氏は「空襲は当時、軍事機密が絡んで明らかにされなかった。また戦後補償でも一般の被災者は対象にされなかったので記録は残らなかったので、今後、少しでも風穴を開けていかないといけない」と調査の意義を語った。







