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■瓦屋寺に伝わる2つの巻物 瓦屋禅寺住職・藤澤弘昭さんが書院の手文庫を整理されている過程で、同寺に古くから伝えられていた「八日市場市神之略本記」および惟喬親王「御縁起」を見つけられたとのお話を聞いた。 さっそく瓦屋禅寺の庫裏をお訪ねして、藤澤住職のお話を伺い巻物として装丁された「八日市場市神之略本記」および惟喬親王「
八幡山に対面する日杉山に建つ。寺伝によれば、推古天皇の勅命により聖徳太子は近江に48の寺を建立し、その最後の寺院。願いが叶ったことからその名がついた。本尊は太子作と伝えられる十一面観音(秘仏)。元々八幡山の中腹にあり、山頂の八幡神社と不離一体の関係であったが、豊臣秀吉の命により八幡山城が築城される際、神社ともに遷され、
「近江輿地誌略」によれば、聖徳太子に関連する安土浄厳院の末寺。豊臣秀頼の時代に安土から現地に移転した。石地蔵菩薩が二体安置され、一体は弘法太師作、もう一体が聖徳太子作と紹介されている。詳細不明。
「近江輿地誌略」によれば、「本尊観世音菩薩(如意輪観音)は上宮太子の彫刻するところ也」と記載されているが、詳細は不明。
太子開基寺院で、近江最古級の歴史を持つ。建立にあたっては百済僧の恵聴、道欣、観勒に命じて力を発揮させたと伝わる。本尊は植木観音とも呼ばれる十一面観音の大像(秘仏)。寺院は幾たびもの火災にあっているが、そのたびにこの尊像は運び出され難を免れてきた。そして、地上の楽園とまで表現される繁栄を見せた。しかし、織田信長の焼き討ち
伝説によれば、太子が百済寺に向かう途中、ここで休息をし、お弁当をとった。そして箸を地に突き刺し、百済寺が栄えるならこの箸よ大木となれ、と祈ったところ、柳の大木となった。花ノ木と同じ伝承。現在は恵美須溜龍神を祀る祠に移されている。
地蔵出現の沢の向いに建つ堂。聖徳太子の霊験により池より引き上げられた地蔵を祀るために、推古14年に太子により建立されたと伝えられる。旧湖東町内で唯一の真言宗寺院の本堂で、江戸末期の小規模密教本堂の姿をよくとめる。
地元の伝説によれば、太子が瓦屋寺から百済寺に行く途中、きれいな池のほとりで休息された。その時、池の中から光が発した。村人に光の下を探させたところ、一体の地蔵菩薩の像が現れた。この池は灌漑用水池として機能していた。水と太子との関係を具体的に示す遺産。
――妻を亡くされても、息子さんはパリで活動を続けられたのですか。 レオポルト いや、あいつの頭にあったのは、無理矢理引き離されたと思っているアロイジアのことばかりなのです。もちろん、母親の死は、大きな打撃だったでしょう。でも、それが息子のアロイジアへの気持ちに変化を起こすようなことはなかった。グリム男爵からも見捨てられ
美を拓く者が追求の先に見るものとは…殿堂でのグローバルで多彩な作品との出会いは毎回「刺激と希望」の出会いでもありました。追求の先に其々の純粋を見た気がします。 東近江の芸術を愛する会 小嶋亮子氏 ▽会期・会場=令和5年1月15日まで、西堀榮三郎記念探検の殿堂 (コラム終わり)
展覧会のタイトル通り出品作家が自分の殻を打ち破る新しい挑戦が見られる展覧会でした。今回は若手も多く、世代間交流を楽しめる新鮮で充実した展覧会になりました。 東近江の芸術を愛する会 垣見敏雄氏 ▽会期・会場=令和5年1月15日まで、西堀榮三郎記念探検の殿堂
「旗振り通信」とは、堂島(大阪市北区)の米相場を各地に伝える通信方法である。 堂島に米相場会所が開設されたのは江戸時代の享保15(1730)年で、明治26(1893)年には株式会社組織の米穀取引所となり、かつて堂島は広く全国米取引の中心地であった。 大阪・堂島の米相場を、一刻も早く全国各地に伝える方法として登場したのが
伝説によれば、ここに立ち寄られた太子に、芋を煮て差し上げたところ、大変に喜んでお食べになった。それ以来、ここでとれる芋を「太子芋」と呼んでいたが、やがて省略されて「たいも(田芋)」と呼ばれるようになった。 また、ここで休息された太子の馬に飼葉として大豆を煮て食べさせたが余ってしまった。太子は余った大豆を藁(わら)にくる
『近江輿地誌略』によれば、もと聖徳太子建立の寺院という。本尊観世音菩薩と記載されているが詳細は不明。湯屋の西福寺の誤認の可能性がある。湯屋は百済寺にちなむ地名。市指定の観音像が安置されている。
『近江輿地誌略』によれば、「是花澤村の領分にあり・・是も聖徳太子の故事あるよしいひ傳ふ」と紹介している。地域の伝承では、以前ここに清流が流れ、瀧と淵があったといわれているが、現在はその痕跡しかない。
北花沢のハナノキと同じ縁起。南花沢の八幡神社の御神木として大切に祀られている。残念ながら、近年の台風により主幹が倒れてしまったが、ひこばえの後継木が育ちつつある。近くに水の神である弁才天が祀られ、ハナノキと水との関係をうかがわせる。
太子が百済寺を建立する際、ここでお弁当をとり、その箸を地面に突き刺し、「百済寺が繁栄するならば、この箸よ巨木となれ」と祈念したところ、箸がハナノキとなった。御神木として崇められ、葉一枚、枝一本とて持ち出すことが禁じられている。
聖徳太子建立の満願坊の跡に建つ。北花沢の花ノ木の西に接するように建っている。詳細は不明。東近江大使街道の一部に位置づけられるか。
推古天皇15年、聖徳太子が薬師如来を祀るため草創した白鹿背山巨徳院が元。後に恵心僧都源信が入り、天台宗となる。現在は浄土宗。参道及び境内に植樹されたモミジが見事。
愛する会のメンバーに加えられ、各分野の作家達と共に活動出来、刺激と学びの場となった。 例のないグループはここの活動にも市内外の芸術文化に期待と貢献出来ると思う。 東近江の芸術を愛する会 紅谷和子氏▽ 会期・会場=9月17日~令和5年1月15日、西堀榮三郎記念探検の殿堂