中島 伸男
■瓦屋寺に伝わる2つの巻物
瓦屋禅寺住職・藤澤弘昭さんが書院の手文庫を整理されている過程で、同寺に古くから伝えられていた「八日市場市神之略本記」および惟喬親王「御縁起」を見つけられたとのお話を聞いた。
さっそく瓦屋禅寺の庫裏をお訪ねして、藤澤住職のお話を伺い巻物として装丁された「八日市場市神之略本記」および惟喬親王「御縁起」の両書を拝見させて頂いた。
また、別の日には市神神社宮司・中嶋玉城さんとともに再度瓦屋禅寺に伺い、中嶋宮司が持参された「八日市場市神之略本記」と比べながら瓦屋禅寺になぜこれらの古い書き物が伝えられてきたのかなどについて3人でお話を交わす機会をもった。
瓦屋禅寺の「八日市場市神之略本記」および惟喬親王「御縁起」の2つは、同寺先々代の無外和尚が他の書類とともに文庫に収めておられたもので、先に述べたように、藤澤住職が文庫を再整理されるなかで、これら2点の存在に気づかれたのである。
■瓦屋寺の起源を説く「略本記」
藤澤住職が、巻物状になった瓦屋禅寺蔵「市神之略本記」と惟喬親王「御縁起」をテーブルに広げて下さった。
藤澤住職のお話は次の通り。
「この2つは、瓦屋禅寺の当初からの所蔵物ではなく、理由がありいつの時代かに入手し、今日まで伝えられてきたものと思います。それは、内容が当禅寺に関係しているためで、少なくとも江戸末期には当禅寺に存在していたと思います。基本的には、2書が聖徳太子説話との関係が深いためであったと考えられます」
次いで、市神神社・中嶋宮司が持参下さった同神社に伝わる「八日市場市神之略本記」を木箱から取り出しご披露下さった。
冒頭には、右手に釣竿をもち左の手で大きな鯛を抱いた恵比寿さんの版画が捺している。
文章に目を移すと、次のような書き出しになっている。
「抑(そもそも)此江州神崎郡八日市場に市神と崇め候は、推古天皇元年、聖徳太子、四天王寺を造営したまふ時、同郡白鹿山の東の麓に於いて幾千万の瓦を造らせ難波津に運ばせ給ふ」
「太子、かの山に渡らせられ新たに瓦屋寺を営し、手つくり大悲の像を彫(きざ)み本堂に安置したまふ」
続いて、「聖徳太子は桴川(いかだがわ)の北に民屋数百戸を置き、事代主命(ことしろぬしのみこと)の神像を刻し一祠壇に納め、同年(推古天皇九年)三月八日、初めて市店を開き士農工商の別なく交易する事を教え給ふ」
そして、これが『源平盛衰記』(鎌倉時代ころ成立した軍記物語)にもその名が記された市場町・八日市の起源であるとの趣旨が述べられている。私も小学生のころから、八日市の起源・繁栄のいわれとして、先生や親からしばしば聞いてきたところである。
「八日市場市神之略本記」は全文約530字、隆盛を極めた八日市場の起源と歴史を語った内容であり、あわせて瓦屋寺の起源についてもふれている。
末尾には、「慶長15年(1610)5月8日、北野々宮神主・大江基房(おおえもとのぶ)謹書」と記されている。北野々宮とは、現在の皇美麻神社(すめみまじんじゃ・八日市町)のことであるとの中嶋宮司のお話である。
「略本記」の巻末には、「推古九年ヨリ寛政十二年マデ千二百年也」と記されている。「八日市場市神之略本記」本文にあるように推古9年(601)3月8日に初めて市店が開かれ、以来、1200年を経た寛政12(1800)年に版木が興されたことを示しているのであろう。
中嶋宮司のお話では、「八日市場市神之略本記」の版木は「八日市焼け」まで市神神社に伝えられていたが大火により焼失したとのことである。
八日市焼けとは、明治4(1871)年5月18日午後8時ころ金屋村・指物職清右衛門宅から出火し、強風にあおられ火勢は筏川を越え八日市村・浜野村に飛び火して両村の大半、400戸余りを焼き尽くした惨事である。中嶋宮司が持参くださったのは、焼失前の古い版木によっておこされた貴重品である。






