近江の「旗振り山」を探る 中島 伸男
「旗振り通信」とは、堂島(大阪市北区)の米相場を各地に伝える通信方法である。
堂島に米相場会所が開設されたのは江戸時代の享保15(1730)年で、明治26(1893)年には株式会社組織の米穀取引所となり、かつて堂島は広く全国米取引の中心地であった。
大阪・堂島の米相場を、一刻も早く全国各地に伝える方法として登場したのが旗振り通信である。見晴らしのよい山頂で大きな旗を振り、次々とこれを全国各地にリレーする方法である。
箕作山系の西端、十三仏で知られる岩戸山(近江八幡市安土町内野)山頂にも旗振り場があって、野洲市・相場振山からの信号を受け、岩戸山からは彦根市・荒神山へと中継されていた。
■飛脚から旗振り通信へ
私がこのような「旗振り通信」に関心をもったのは、山田英雄さん(同市安土町内野)から「明治時代に、十三仏堂の少し上で旗を振って米相場をリレーしていた。そこには岩があって、旗を降る方向を示した矢印が彫っている」という話を聞いたことであった。昭和60年ころのことである。
以来3年間、私は滋賀県内の旗振り通信ルートを明らかにしようと各地を訪ね、地元の人々の証言をもとに「旗振り」の行われた滋賀県内の山々を確定し、それを線として結ぶ作業を続けた。
仲買店の屋上に組まれた櫓(やぐら)で旗が振られると、近郊の山の頂上などに待機していた者が望遠鏡でそれを読みとり、次の中継地に同じように旗を振って合図をする。最初に発信したものはこれを望遠鏡で見て間違いがないか確認し、次々に伝えていく方法である。
旗は幅1メートル、長さ1・7メートルあったといわれ、旗の振り方によってあらかじめ通信内容が定められていた。電話が発明され、わが国にもこれが普及する明治40年代まで旗振り通信は続いた。
■大津・相庭山(小関山)
大阪・堂島から滋賀・大津方面への旗振りによる相場情報は、次のルートを経ていたことが近藤文二氏「大阪の旗振り通信」(『明治大正大阪市史』)に簡記されている。
堂島→千里丘(吹田市)→阿武山(茨木市)→柳谷西山(大阪府島本町)→二石山(京都市伏見区)→小関山(こぜきやま・大津市)。
地域名が記されているだけで、実際にそれがどの山であるのか具体的なことは不明である。県内ルートを明確にするためには、聞き取り調査や参考図書で確定してゆくほかない。
そんなとき、大津・小関山について樋爪修さん(大津市市史編さん室=当時)から「近江国滋賀郡藤尾村絵図」に「相場峯」と記した山があることを教えて頂いた。国土地理院の地図(明治30年)をみると藤尾奥町と大津市街を結ぶ峠道に小関越の地名があった。
さらに『近江国滋賀郡誌』には「相庭山」として次のように記していることも知った。
「昔時、米商、此ノ峯ニ登リ、小旗ヲ差シ招キテ米価ノ高低ヲ報ス。」
大津市藤尾奥町を訪ねた。
小関峠から雑木林の中の小径を15分余り登ると、一帯が雑木林に覆われた頂上に辿り着く。少し移動すると琵琶湖や大津市街を眼下に望むことができ、また京都方面への見通しもよい。
「ここが相庭峯だった」との確信を深める。標高325メートル。東海道本線の逢坂山トンネルのちょうど真上に当たる。
■相庭山から栗東・安養寺山へ
安養寺山(栗東市安養寺町)の旗振り場は、頂上(234メートル)二等三角点付近の台地である。現在は一帯が雑木林になっているが、かつて禿山であったという。頂上から大津・相庭山への見通しがよく、一方、東の方向についても次の旗振り場である野洲の相場振山への展望がきく。
■野洲の相場振山(田中山)と望遠鏡
野洲中学校の裏から険しい登路30分あまりで、相場振山の頂上に達する。そこには数個の岩塊がころがっており、そのうちの一つにこぶし大の丸い穴が空いていた。かつて、旗振りの竿を立てた穴なのだろうか。
この岩の上に立つと、西方に栗東の安養寺山、そして東にはつぎの中継地点である岩戸山がよく見通せる。
当時使用の望遠鏡を見る機会があった。黄銅製でずっしりと重い。三段に引き出すことができ最長1メートルになる。旗振り通信には、望遠鏡が使用されていることが判明した。
■岩戸山の岩場に彫られた矢印
冒頭、記したように、岩戸山に米相場の旗振り通信中継地があったという話を初めてお聞きしたことが、私の県内旗振り通信ルート調査の原点となった。内野の集落でさらに聞いてみると、辻井九右衛門さん(明治30年生まれ)からも次のようなお話を聞くことができた。
「自分が老蘇の小学校に通っていたとき、山の上で頑張って旗を振っている姿が見えた。高等科へいった頃には、もうその姿はなかった。当時は、長光寺山(瓶割山)から岩戸山に。そして荒神山へ中継していたのではないか。」
川瀬直治郎さん(同16年生まれ)は、岩戸山で実際に旗振りをしていた人を憶えておられた。安土町東老蘇(現・近江八幡市)の中村という人だった、とのこと。当主の中村健一さん宅も訪ねた。
「確かに曽祖父が岩戸山で実際に旗振りをしていたことは聞いている。かなり前には遠眼鏡(望遠鏡)が家にあったが、いまでは見当たらない」とのこと。
教えられた岩戸山の旗振り場に登ってみた。十三仏堂の前から少し登った地点である。大きな岩に紅白の布が巻かれていて、岩に西方を指す矢印が彫ってあるのを見つけた(その後、標識が建てられ分かりやすくなった)。これは明らかに野洲・田中山方面を指している。また、最初の岩場から西方に10メートルほど下りた岩場にも、近江八幡方面を指した矢印が彫られているのを見つけた。のちに柴田昭彦さん(寝屋川市)が、近江八幡市長田町方面を指していたことを『近江八幡・ふるさとの昔ばなし』の記述をもとに明らかにされている。
■岩戸山から荒神山へ
荒神山で旗振りが行われていた場所はドライブウェイの建設で失われたが、東山麓の清崎町からの旧参道上部にあたる。ドライブウェイがヘアピン・カーブする位置である。かつて旗振り場付近にあった石地蔵が、今もそのまま残されている。
この位置から西方を眺めると、箕作山西端の岩戸山のピークが確認でき、北東部に佐和山をはじめ彦根市街が一望できる。
明治期、彦根米穀取引所は四番町(本町一丁目)にあり、佐和山でも旗振りが行われていた。
佐和山山頂から長浜市街地方面には展望がよく、佐和山での旗振り通信は長浜絲米取引所が必要としたものであったと推定できる。
■まとめ
このほかに安養寺山(栗東)から安楽越え(土山)を経て三重県に伸びるルートもあった。
明治40年代に県内の主な市・町に電話が敷設されるまで、米相場の伝達は山頂で1メートル大の旗を振る人々によって支えられてきたのであった。
旗の振り方には決まったルールがあって、上げ相場は「直立した旗を発信者の左横にして二振り」、下げ相場は「直立した旗を発信者の右下にして二振り」「一銭は右横斜下」「二銭は右横」などの取り決めがあった(『安土町の昔話と年中行事』)。
これまで調べた中で、指摘できることが二つある。一つは、旗振り山として選ばれた山は単に展望がよいことだけではなく、人家に近く標高も300メートル程度よりも低いということである。これは標高が高いと旗振りをする人が自宅を出て山頂に登るうえで大きな負担になるからと考えられる。
もう一つは、旗振り山相互の距離間隔である。近過ぎると多くの旗振り場をつくる必要がある。間隔が遠いと望遠鏡を使っても正確な伝達をすることが不可能になる。
滋賀県内の旗振り山相互の間隔は、7キロから14キロメートルの範囲に設けられていたことがわかる。
今や、ほとんどの人がスマートフォンで即座に身近な所用やニュースを伝えあえる時代となった。旗を振って重要な米相場の「通信」をしていたということなど想像もできない。
たかだか150年余りの技術の進歩をただただ驚くほかない。








