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『蒲生郡誌』によれば、日野町小御門地先の金剛寺が、太子開基の寺院と紹介されているが、明確に該当する寺院はなく、詳細は不明であるが、史料に見える寺院として取り上げる。
葬儀で、当時の八日市国民学校学校長が弔事を述べた。一部を紹介する。 「君ハ戦争ガ生ンダアマリニモ尊イ犠牲、否、生産戦列ノ神兵トイハネバナリマセン。アレカラ二度三度、敵機ハ攻撃ヲ加ヘテ来マシタ。コレカラ益々猛烈ニヤッテ来ルモノト思ヒマス。スデニ本土決戦ハ始マッテイルノデス。」 忠五郎少年は、兄4人・姉3人をもつ8人兄姉
昭和20年7月24日午前11時20分、工場で左腕に大怪我を受けた一人の勤労学徒動員の少年が自宅でひっそりと息をひきとった。八日市国民学校高等科2年生(現・中学校2年生に該当)松村忠五郎少年(13歳、旧八日市町大字川合寺)である。 当日は早朝から米艦載機グラマン十数機が八日市町上空に来襲、陸軍八日市飛行場の施設などに猛烈
鎌倉時代の資料に現れる聖徳太子創建本朝48(46)精舎の一つで、近江11か寺の一つにも数えられる。本尊十一面観音も太子作と伝えられる。奈良仏教との関係が深く、聖武天皇の勅命により、東大寺のお水取りを始めた実忠が、鑑真将来の舎利を納め、後に空海が舎利をもう一枚納めたと伝えられる。現在は小堂を残すのみではあるが、伝えられた
――オペラ『後宮からの逃走』では、主人公は捕らわれの身であるコンスタンツェの救出に成功しましたが、息子さんの実生活の話はどんな風に進んだのですか。 レオポルト 以前にも申し上げた通り、私はウェーバー家の連中を、誰一人信頼をしておりませんので、息子が何を言おうと、一切信じられないのです。あいつは、1781年の12月になっ
第105回全国高等学校野球選手権滋賀大会(滋賀県高等学校野球連盟、朝日新聞社主催)が7月8日に開幕する。昨年全国夏ベスト4の近江をはじめ、春の甲子園出場校の彦根総合など注目チームや選手も多く、開幕序盤から見どころ十分の滋賀大会になりそうだ。 抽選会の結果、4つのブロックに分けられたトーナメントのシードには、春季の滋賀大
太子は雲冠寺とともに、竜王町山中に法満寺を建立したと伝えられるが、その位置は不明。法満寺は五別院を擁する大寺として栄え、雲冠寺と度々抗争を繰り返し、寺勢が衰えた頃、織田信長の焼き討ちにあって消滅したと伝えられる。
竜王山(鏡山)の山頂付近に露出する磐座を神体山とする神社。太子が雲冠寺を建立した際、鎮守として祀ったことに始まると伝えられている。貴船神社と言う場合もあるが、いずれにしても水をもたらす竜神を祀る聖地。拝殿では雨乞い踊りが奉納される。
竜王山(鏡山)の山頂付近にある山寺跡。地域の伝承では、聖徳太子が鏡山山中に寺院を建立し、大いに栄えた。しかし、戦国期に織田信長の焼き討ちに遭い壊滅した。現在は遺跡となってしまったが、坊の石垣や石仏が残る。
苗村神社は直接的には聖徳太子とは結びつかないが、龍王寺のように御澤神社の三和姫を介することにより太子とのつながりが出てくる。太子が開創した御澤神社の主は美女であり大蛇である三和姫で、小野時兼と結ばれ子を授かった。紆余曲折はあったものの、2人の子孫は今も小野氏として竜王の地に根を下ろし、苗村神社の宮司を務め、竜王の総社と
雪野山の麓に建つ龍王寺は、奈良時代に元明天皇の勅願により行基が開いたとされている。聖徳太子との関係は直接的にないが、縁起が伝える小野時兼と東近江市上平木町の御澤神社の主である三和姫との関係がある。縁起では、龍王寺の薬師如来のもとで療養する吉野の住人小野時兼のもとに謎の美女が現れ、結ばれ子供も授かる。しかしこの美女は御澤
太子が開基し、本尊地蔵菩薩は太子が自ら刻んだ像と伝えられる。彩色を施した非常に美しい像で、平安時代後期の作とされる。また、かつてこの地にあった福田寺にあった像とも伝えられる。本堂前に鎌倉時代の七重層塔が伝えられている。
本尊は太子が28歳のときに一刀三礼して彫ったと伝わる十一面観音菩薩。30年に一度だけ御開扉される秘仏として祀られている。山寺の守り仏として祀られていたが、戦国時代に織田信長の兵火によって全山が焼失したと伝えられる。この時、この観音菩薩だけは焼け野原に世を憂う慈悲深い姿で厳然として佇んでおられたと伝わり、その袖にはいまも
縁起によれば、太子が老蘇の森に来たとき、膳部大郎女が難産で苦しんだ。太子は「あなたは仏法を知らないから苦しむのだ」と告げると、妃は「私が安産するならば共に仏法を崇め寺を建立する」と言い終わらないうちに、金色の光が飛来し、后の口に入り忽ちに皇子が生まれた。喜んだ妃は、武河綱に命じて光の大元を探らせたところ、三十町離れたと
――息子さんがウィーンに行かれてから、お二人の関係はどうなったのですか。 レオポルト 私は、息子を決して許してはいませんでしたが、息子は私の説得にまったく応じず、ウィーンでの生活を始めたわけですから、私としてももう、手の打ちようがありません。私は当時62歳で、もう老年の域に入っていました。衛生状態のよくない当時にあって
観音正寺にあったとされる十坊のうち唯一現在まで残された坊で、繖山の山すそに建つ。縁起によれば、ここに来た聖徳太子が大岩に観音菩薩を感得し、自ら観音を刻み岩窟中に安置した。これを赤川観音といい、安産、子宝成就の観音様として信仰される。また、太子が大岩の上でお説教をしたところ、動物や鬼らまでこれを聞き入ったといい、説法岩と
西国観音霊場の事実上の最後の札所である観音正寺には太子に関連する複数の縁起が伝わる。一つに、太子がこの地を訪れた際に出会った人魚の願いを聞き、人魚を成仏させるため寺院と千手観音像をつくった。人魚のミイラがあったが、惜しくも焼失したという。また、巨岩の上で天人が舞っているのを見た太子はこの石を天楽岩と名付け、妙見菩薩をは
織田信長の居城である安土城が建っていた安土山には、築城前に太子が開基した九品寺と呼ばれる天台宗寺院があったとされる。安土城の構造は天台系山寺の構造に酷似している部分もあり、前身の寺院があったことは十分に想定される。
會勝寺の観音寺に安置されている千手観音像は、安土城内に太子が建立した九品寺の本尊と伝えられる。1月17日の観音会の開扉され、堂内は餅花で飾られる。
長命寺の坊を構成する寺院で、太子の開基。不動明王を本尊とする。現在は宿坊として活動をしている。