県平和祈念館で大村信代さん
【東近江】 1945年8月9日午前11時2分、当時7歳だった大村信代さん(87)=草津市=は、自宅のあった長崎市滑石町で被爆した。80年たった今でも、人もまちも焼きつくされた光景やにおいが忘れられない。「長崎原爆の日」の9日、県平和祈念館(東近江市下中野町)の青少年向けの学習会で約70人を前に被爆体験を語った。
――自宅は爆心地から3・5キロ。父親は兵隊にとられ、母親、叔母、祖父の4人で暮らしていた。近所の友達と庭で水遊びをしていたときに被爆した。
「突然、ピカっと光った。きれいな光と地響き。家は(爆心地からみて)山かげだったので、放射線は届かなかった。投下直後、何がおこったのか分からず、祖父と近所の人が長崎のまちへ行った」。
「その後も祖父は何回かまちに入り、リヤカーを使って死体の処理やがれきの片づけに従事した。服には焦げ臭いなんとも言えないにおいが染みつき、毎日のように『地獄だ、地獄だ』と口にしていた。服は毎回、母親が泣きながら洗濯していたのを覚えている。爆心地から離れていても漂ってくるにおいは、今も忘れられない」。
「母親に連れられて、病院へ行ったとき、子どもの患者が寝ていたが、その子の母親がはしを使って、傷口からウジ虫をつまんで出していた。私は子どもだったから、まず怖いのが先にたった」。
――原爆投下時に生き残れても、放射能による健康不安や、差別や偏見で苦しむ被爆者が多くいた。
「向かいの自転車屋さんの家族は何年かで1人ずつ亡くなった。放射線は一生残る。苦しんで亡くなった友達を思うと、一生懸命に生きたかっただろうと、いつも思い出す」。
「長崎の女は嫁にもらうな、生まれた子にはあとが残るなどと。被爆体験を話すようになったのは、30年ほど前に夫の仕事で滋賀県に転居し、被爆者健康手帳をみた医師に勧められてから」。
――日本は戦後、便利で豊かになったけれど……。
「便利やぜいたくよりも、地に足のついた平和な生活を子や孫のために求めたい。戦争だけは二度といやです。日本は絶対してはいけない。若い人は、がんばって、戦争のない国にしてほしい」。
(高山周治)







