東近江市の吉田武司さん戦争体験語る
【東近江】 「(空襲で死んだ兄を)思い出すと泣けてくる。きょうは泣かずに話そうとしたけれど、やっぱり泣いてしまう」。吉田武司さん(86)=東近江市=は、80年前の空襲体験について、声を絞り出すように語った。太平洋戦争の末期、八日市陸軍飛行場とその周辺では、米軍機による攻撃が相次いだ。(高山周治)
吉田さん一家は、1943年(昭和18年)頃、三重県志摩郡から父親の実家の八日市に縁故疎開し、やがて父親は召集を受けて戦地へ兵隊にとられた。
45年(昭和20年)7月24日の朝、御園国民学校(現在の御園小)1年生の吉田さんは学校に登校したものの、朝から空襲警報が発令されていたため、先生の指示で自宅に帰された。
戦争末期の当時は、空襲警報は地方でも日常茶飯事となっており、下校途中の三差路では、中学3年生の生徒3人がのんきにしゃべっていたのを覚えている。しかし、この日は違った。
自宅に着いて間なしで、米軍機が爆音をとどろかせて一気に迫って来た。母親は慌てて、その日に限って防空壕に逃げず、2歳の妹喜代子さんを抱え、吉田さんと小6の姉芳江さん、小4の兄義信さんをせかして、向かいの親戚宅の玄関に飛び込んだ。
爆弾は防空壕に直撃し、衝撃で親せき宅も瓦は落ち、壁もすべて崩れ落ちた。土ぼこりで視界は真っ暗になった。
肩にかけていたカバンは吹っ飛び、自分の尻の辺りに違和感を感じて触ると、肉がえぐれており、血がべっとり手についた。神経が麻痺していたのか、不思議なことに痛くはなかった。
そこへ駆けつけた警防団の人たちが助け出してくれ、足がしびれて立てない吉田さんをリヤカーに乗せて八日市陸軍飛行連隊病院(現在の東近江総合医療センター)へ連れて行ってくれ、治療を受けることができた。
一方の兄は腹部にひどい損傷を受け、手の施しようがないため、そのまま家に戻された。兄は、土ぼこりで汚れたくちびるで「母ちゃん、水がほしい」と消え入りそうな声で求めたが、医者からは水をやることを禁じられていた。
警防団の人が「辛抱せぇ」と励ますと、「うん」とうなずいた。母親はやむを得ず、ぬれた手ぬぐいで兄のくちびるを湿らせた。兄はそのまま息を引き取り、母親は泣き叫んだ。
吉田さんはその後、国立病院へ治療に通い、3カ月ほどで復学できるようになった。姉は後遺症のためか、小学校を卒業する頃には、目がほとんど見えなくなり、頭髪は真っ白になった。父親は終戦の翌春、復員した。
吉田さんは戦争体験を次世代の人に伝えようと、県平和祈念館の動画の証言集でも協力している。「若い人にはよい社会をつくってほしい。戦争が起こるのは国や社会が悪いから。他人への思いやりをもってほしい」と訴えた。







