中島 伸男
■丹羽正雄之碑
愛知川右岸沿い、県道・外八日市線から鯰江集落へ入る坂道の東側に小さな緑地がある。「鯰江城趾」の説明板とともに、目をひくのが高さ三メートルちかい石碑である。もとは坂道西側に建っていたが、平成初年の緑地整備で現在地に移された。
石碑上部に、「丹羽正雄之碑」の題字。明治新政府で太政大臣をつとめた三条実美の書である。三条家は平安時代からつづく公卿の名門で、実美は二十一代目。
幕末の激動が、鯰江に生まれた一人の青年を、三条家の諸太夫(しょだいぶ=公卿の事務全般を司る職掌)丹羽家の嗣子に仕立て上げたのである。「丹羽正雄」の生い立ちから紹介する。
■青少年期の「正雄」
天保五年(一八三四)、鯰江村・福田市右衛門に二男が生まれた。卯之助と名付けられる。のちの丹羽正雄である。
卯之助は幼少期から向学の志がつよかった。金屋村(東近江市八日市金屋)瓢箪小路(ひょうたんこうじ=現・大凧通り)の医師・馬淵駿斎の門戸をたたき医学を学ぶ。また、儒学を蒲生郡芝原村(東近江市芝原町)速水橘園から学んだ。
当時、浦賀沖に外国船が出没していた。嘉永六年(一八五三)には、ペリー艦隊が江戸湾入り口まで侵入した。世相は騒然。「開国か攘夷(外国を打ち払う)か」の議論が各地で沸騰した。卯之助十九歳、多感な青年の心にどんな思いが去来していたか。
■国士たちとの交遊
青雲の志をいだき、卯之助は京に出る。あらためて医学・儒学・国学、さらに兵法・剣術を学んだ。そして、「一人の患者を治すのではなく、自分は天下の病いを治し万民を救いたい」と決意する。
そのころ、彼が京で交わったとされる人物には、そうそうたる国士がならぶ。
たとえば、梅田雲浜(うめだ・うんぴん)。雲浜は若狭小浜藩士で、当時、京に私塾を開き尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇の絶対化と外国排撃を主張する)派の指導者的存在であった。卯之助は雲浜を師と仰いだ。ほかに、平野国臣(ひらの・くにおみ=福岡藩士、のちに生野義挙事件で逮捕斬首される)、頼三樹三郎(らい・みきさぶろう=儒学者・頼山陽の二男)らである。
著名な国士との交流が実現したのは、卯之助自身が彼らの信望をえるに足る人物であり、識見・弁舌など優れた才能の持ち主であったことを物語る。
このころ卯之助は、自らを織田信長の家臣・佐々成政の末裔と称し、「佐々成之」(さっさ・なりゆき)を名乗っていた。国士にふさわしい、しかるべき血統を彼は必要としたのであろう。
■丹羽出雲守正雄
安政五年(一八五八)四月、井伊直弼が大老職についた。安政の大獄がはじまる。尊王攘夷派の公卿三条家の家臣・丹羽正庸(にわ・まさつね)が、捕縛・追放された。三条・丹羽両家で、正庸が果たしてきた役割を継ぐことのできる人物が必要となった。
安政六年(一八五九)、卯之助は丹羽家の養子に迎えられた。正庸と卯之助が尊王攘夷活動をつうじ面識があったためという。二年後、家督をえて卯之助は丹羽正雄を名乗る。同時に、出雲守に叙任。ここに、丹羽出雲守正雄が誕生した。二十七歳であった。
主家・三条家では実万(さねつむ)のあとを継ぎ、実美(さねとみ)が登場。急進派公卿のリーダー格となる。
実美は正雄より三歳年下である。実美にとっての正雄は、たんなる家臣というより、頼り甲斐のある相談相手でもあったにちがいない。正雄は実美の意を受け、尊王攘夷派の大名家や志士たちとの間に立ち活躍の場を広げる。
■七卿都落ち
文久三年(一八六三)八月十八日、朝廷内でクーデターがおこった。京を制圧していた長州藩など尊王攘夷派にたいし、薩摩藩・会津藩など公武合体派(天皇と幕府を一体化させ、幕藩体制を強化しようとする勢力)がいっきに政治の主導権をにぎった。「攘夷急進派公卿の参内禁止」「長州藩退去」「尊王攘夷派中心人物の指名手配」などの勅命(天皇の命令)がでた。
三条実美ら七人の公卿をはじめ、在京の長州藩兵らは長州へと落ちていった。有名な「七卿(しちきょう)都落ち」である。正雄も、三条実美の都落ちにしたがった。
三条実美ら七卿は官位をうばわれ、追及を受ける身。湯田(山口市湯田)に匿われたが、表だった活動はできない。正雄は、瀬戸内に面した三田尻(防府市)に留まりつつ、京の情勢をキャッチし三条実美との連絡にあたった。実美の代弁者として、西日本各地を往来・奔走する日々であった。
■六角牢獄に繋がる
元治元年(一八六四)初頭、正雄は三条実美から「嘆奏書」をたずさえ上京するよう命を受けた。朝廷に「攘夷の徹底」と七公卿らの「復職嘆願」を訴えるためである。公卿・三条西家の家臣・河村季興とともに三田尻を出発、大坂から淀川をさかのぼり伏見に到着した。同地・三栖院(みすいん)に潜伏する。東高瀬川が宇治川に合流する辺りが三栖町であるが、三栖院の所在は不明である。
同年六月五日夜、三条小橋脇の池田屋に密会中の長州・肥後出身の志士たち二十名を新撰組が襲い、斬殺・逮捕した。池田屋事件である。三栖院にいた丹羽正雄・河村季興も、このころ幕吏に所在を探知され逮捕された。
丹羽・河村は、池田屋事件の逮捕者らとともに六角牢獄に収監された。
六角牢獄の本来の名称は三条新地牢屋敷という。表門が六角通りに面していたことから、六角牢獄と通称されていた。周囲は竹柵と築地塀で囲まれ、本牢・女牢・切支丹牢・拷問所などが設けられていた。
■未決のまま斬首
長州藩では、形勢挽回と池田屋事件の報復を一挙に図ろうとする動きが高まった。藩兵、浪人組らの部隊が京に進軍する。
元治元年(一八六四)七月十九日、早暁から薩摩・会津・桑名などの守備軍と長州藩が激突した。
蛤御門付近の戦闘がとくに激烈であった。しかし、一日で長州藩の敗北が決定的となった。「蛤御門の変」である。戦闘の煽りをうけ洛内の各所で火災が発生、京の町の三分の二が焼け野原となった。
二十日、六角牢獄にも火の手が迫ってきた。このとき獄舎に収監されていた丹波正雄をはじめ、天誅組大和義挙関係者・池田屋事件関係者ら三十七名(三十三名説も)は、「破獄の恐れあり」として切支丹牢の東側で斬首された。この処刑は、午後二時ころから約三時間つづいたという。
丹羽正雄は、このとき三十一歳であった。「勤王派」ということだけで、罪状は何もない。このどさくさで一命を落とすことについて、彼はどれだけ口惜しく思ったことであろう。
手を下したのは、幕吏とも新撰組の手の者ともいわれている。
六角牢獄の南一キロメートルに新撰組壬生屯所があった。事件の残虐性や牢獄と屯所の位置関係を考えると、下手人は新撰組とするのが妥当であろう。
六角牢獄跡は、四条大宮から徒歩で十数分。武信稲荷(たけのぶいなり)の筋向かいにある。現在はマンションの敷地となっているが、一隅に「殉難勤王志士忠霊塔」がひっそりと建っている。
■竹林寺に遺骸を改葬
六角牢獄での処刑遺体は、西土居御仕置場(現・山陰線円町駅南)に運ばれた。普通の刑死者とおなじように、丹羽正雄らの遺骸も薦包みにして土壙に投げ込まれた。
情勢はめまぐるしく変転する。慶応二年(一八六六)一月二十二日、坂本龍馬の働きで歴史的な薩長同盟が成立した。
翌三年十二月九日には、王政復古の宣言がなされた。京を追放されていた三条実美ら七卿らの罪はことごとく赦免された。実美は同月二十七日に帰京し、即日、新政府の議定(ぎじょう=維新直後の最高政治機関の役職の一つ)に任ぜられた。
しかし、西土居御仕置場に埋められた丹羽正雄らの遺骸は、ながらく忘れ去られたままであった。志士たちの遺骸が見つかったのは、明治十年(一八七七)二月であった。個々人の姓名が瓦に朱書されていたことから分かったという。御仕置場に近い竹林寺(上京区下立売通御池通西入る行衛町)が改葬先にえらばれた。同寺はそのころ無住で、近隣の信徒数名だけで六角牢獄殉難者の法要がいとなまれた。
■丹羽正雄の顕彰
明治二十年六月、「丹羽正雄之碑」が地元に建立された。発起人は馬淵友太郎と福田弥三郎である。馬淵友太郎は、金屋で医業を営んでいた、「卯之助」時代の恩師・馬淵駿斎の長男である。友太郎自身も尊王攘夷の運動に身をゆだねた一人であった。もう一人、福田弥三郎は正雄の生家の嗣子である。
明治二十四年十二月、丹羽正雄にたいし「国家に勲功、功績があった」として従四位が追贈された。
明治二十五年十二月、東山・霊山護国神社に正雄の墓碑が建立された。彼と同じ運命を辿った河村季興と隣り合わせになっている。
いっぽう、竹林寺に改葬された遺骸はなおも忘れられていた。
明治四十三年十一月、竹林寺住職が敷地内で志士の氏名が朱書された瓦片や遺骨を発見した。住職は遺骨を二個の骨壺に収め、あらためて地中に埋葬、その地に石碑を建立した。竹林寺の赤い山門をくぐった右手、「六角獄舎殉難志士之墓」がそれである。
幕末から明治維新にかけ、日本は新しい「国のかたち」を模索し悩みぬいた。国の行く末を憂い、自己の思想に殉じた志士が輩出した。
福田卯之助、のちの丹羽正雄も、まさにそのような黎明期における、尊い犠牲者の一人であった。とはいえ、主君の三条実美は維新後、大政大臣にまで昇りつめている。その差は、あまりにも大きい。「丹羽正雄之碑」を見るたび、私は彼の“無念”を思い、自ずと頭(こうべ)を垂れるのである。
■(『愛東の歴史』『京都の歴史・第七巻』『京都の監獄史』『山口市史』『近江愛智郡志』『近江蒲生郡志』などを参考にし、竹林寺住職・小澤昭美さんからもお話を伺いました。)
中島 伸男
(東近江市昭和町、1934年生まれ)
元・八日市市史編さん室長。現・野々宮神社宮司、八日市郷土文化研究会会長。著書、『鈴鹿霊仙山の伝説と歴史』・『翦風号が空を飛んだ日』(朝日ジャーナル・ノンフィクション賞入選)・『近江鈴鹿の鉱山の歴史』









