園児がおいも掘り
駅前アピア・セントラルコート
ゲストに小西哲代議士迎え
新たにイタリアンも追加
和室30畳増築でサービスさらに充実
若きイレブン16チームが熱戦
滋賀報知新聞(ニュース)平成12年8月4日(金)第12345号
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読者参加企画《街角記者クラブ》
《街角記者クラブ》読者参加企画
(湖東・永源寺町)
永源寺町杠葉尾の池田養魚場渓流館は、家族連れなどのレジャー客で最もにぎわう夏休みに照準を合わせ、このほど同館大広間を増築し、さらに充実したサービス提供を実施している。
これまで三十畳だった広間がさらに三十畳増え、最大約八十人の団体客利用が可能になったほか、人気の「イワナづくし会席」には、本場イタリアで修行したシェフが腕をふるう『イワナのタルタル』や『白ワイン蒸し』などユニークなイタリアン創作料理を追加した。イタリアンづくしの会席コースも予定しており、女性客に人気を集めそう。
利用料金は、『イワナづくし会席』三千 ~五千円、『バーベキューハウス』二千五百~三千五百円。詳しい問い合わせは同館(TEL0748-29-0351)へ。
(湖東・日野町)
天轟くごう音と水柱、原爆を思わせるキノコ雲。日本帝国海軍が世界に誇った海に浮かぶ鉄の城塞「戦艦大和」は、昭和二十年四月七日午後二時二十三分ごろ、三千人近くの将兵たちの阿鼻叫喚に包まれ、鹿児島から西南三百キロ沖の東シナ海で爆沈した。
県内で唯一の生存者である日野町内池、前宮正一さん(74)は「口では表現できない風景。初めて死の恐怖を味わった」と、脳裏に焼き付いて離れない地獄絵を回想する。
吃水線長二百五十六メートル、最大幅三十八・九メートルの巨艦が沈むとは、誰もが予想できなかったという。米軍(大小の艦船約千隻)が圧倒しつつある沖縄への死の集団特攻「天一号作戦」が同年三月二十六日に発令された時、「何があっても大丈夫という不沈艦の自信があった。一つの島みたいなものだったから」と、戦艦大和に寄せた大きな信頼を話す。
前宮さんは昭和十八年五月、十八歳で呉の大竹海兵団へ志願。戦中は十七、十八歳で兵隊に行かないと、周囲から一人前の男として見てもらえない空気があった。「学校で教えられてお国のためと思って志願したけど、つくづく教育って恐ろしいと思う」と、時代の雰囲気にのみ込まれた当時を振り返る。また戦局については「勝った。勝った」と盛んに宣伝されていたため危機感はなく、「そう簡単には死なない」と楽観的に考えていた。
大和がごう沈した同二十年四月七日、朝から雲が低く垂れ込め、霧雨が降る見通しの悪い天候だった。午前十一時二十分ごろ、導入したばかりのレーダーが米軍機大編隊をキャッチ、同十一時半から戦闘が開始された。
回避運動する大和周辺には、魚雷による水柱が次々と立ち、現場は混乱を極めた。応戦側は嵐のようにむやみに撃ちつづけたが、襲いかかった約三百機のうち撃墜したのは三機、撃破二十機にとどまった。
米軍機の攻撃は左舷に集中、前宮さんが配置されていた中甲板左舷後部にも魚雷が命中した。隣にいた十六歳の吉田という水兵は、頭がい骨の一部を吹き飛ばされ、うわごとの様なことを言っていた。
対空射撃で揺れ動く甲板は、残骸や肉片、血、重油でまみれ、さながら生き地獄に化した。戦闘開始から三時間経過した午後二時二十分、「総員退去命令」が発令され、前宮さんは夢中になって海に飛び込んだ。大和は横腹をむき出しにしながら前進、艦尾を上に突き上げて沈没した後、ごう音をたてて大爆発を起こした。降り注ぐ残がいが海に非難した兵に当たり、命を落とした人もいたという。
内地に戻った生存者は、大和沈没を隠すために隔離された。もちろん前宮さんも佐世保沖の島に隔離された後、小豆島にある機雷特攻「嵐部隊」に配属され、そこで終戦を迎えた。
前宮さんは今年で七十五歳を迎える。大和の乗組員は、十代後半から二十六歳までの若者が多かった。「三千人の尊い命が散ったが、私はお陰様で彼らの三倍以上長生きできた。今は本当に幸せな時代。少しでも恩返しをしていきたい」と、戦争を知らない世代へ悲惨さを伝えようと、五日に近江日野商人館で開かれる「戦争体験を聞く会」で、町内の経験者の一人として当時の記憶を話す。
大和の元乗組員で構成する「大和会」は、会員の高齢化のため五年前の五十回忌を区切りに解散したが、前宮さんの鎮魂の日々は続きそうだ。






