『芸術家としてのモーツァルト』伝記作家ニッセンの報告 『レクイエム』作曲の裏事情(7)
ニッセンはさらに続けて、音楽家が陥りやすい落とし穴に触れる。芸術家の中でも画家は、自らが扱う対象を通して、「自然」というものから制約を受け、それがもたらす束縛に繋がれることがよくあるのに対して、音楽家は、自らの芸術の中で、画家が受けたような制約を受けることがない。音楽家は、何らかの対象物を通してではなく、人間存在に通底する相互的な精神作用を介して、音というものに関わる。そして、音楽家がはまり込む陥穽(かんせい)を次のように表現した。
「もし音楽家が休みなく骨の折れる仕事や活動に従事し、いわば過度の緊張状態が続くことで、自らの精神作用を疲弊させ、もしそのせいで精神が麻痺状態になるとするならば、その音楽家の行く末は、目に見えている。彼は無感覚になり、表情は陰鬱になり、目つきはすわり、彼が属している世間からは完全に見放されることになるのだ。」精神作用に制限が加えられないと、精神は、野放図に活動の幅を広げ、それが過度になると、極度の緊張を生み、それが結局は、自らで自らの首を絞めてしまう事態を生む。それはモーツァルトとて、例外ではない。いや、モーツァルトのような天才的な音楽家だからこそ、極度の集中がそういう陥穽にはまる可能性を高めるのだ。ニッセンは、くどいほど、モーツァルトのそういう側面を強調する。
「過度の精神活動が肉体の健康を蝕み、精神が肉体の犠牲の上に、自らを陶冶するやり方をしていると、精神は肉体の状態に無頓着になり、己の行路を変え、ついには偉大な精神たちが昔から経験してきた方向へと簡単に向かってしまう。つまり精神の高みからどん底への転落、明澄から暗闇への傾斜、光から影へ、光沢の喪失である。」これはまさにモーツァルトの行く末を象徴的に語っており、彼は、晩年自分の死が近いのではないかという予感に取りつかれるや、ある種の憂鬱状態に陥ったが、肉体と協力して精神は自らその状態を克服することはできなかった。「モーツァルトは、『レクイエム』を作曲している時、すでにもはや地上で生きているとはいえず、精神は肉体からほとんど分離しており、現世にいながら、半ば神がかって作曲していたと言っても間違いではないだろう。」モーツァルトが『レクイエム』を作曲したのは、最後の作品というには相応しく、まさにそういう精神状態であった。もし彼がもっと安定した状態で作曲し、夜間ではなく昼に仕事をするつもりでいたならば、あんな精神的作品は、日の目をみることはなかったであろう。
モーツァルト・バー「キール」
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