縁故疎開で兵庫県から湖東へ 食糧難、すぐ近くでの空中戦など実体験伝える
【東近江】 県平和祈念館(東近江市下中野町)でこのほど、戦争体験を聞く平和学習講座が開かれ、学童疎開を体験した野村しづ一さん(88)=同市大沢町=が講師を務めた。講話には小中学生や保護者約40人が参加し、野村さんの語りに真剣に聞き入った。
1942年12月、政府は大きな空襲による人的被害を軽減するため、大都市の児童を農村部へ移す学童(児童)疎開を決定した。野村さんは縁故疎開(親戚などの家への疎開)で兵庫県から実家のある湖東地区へ。「食料の確保には苦労した。みんなお父さんなんかが兵隊にとられますから、小学生(当時は国民学校初等科)も学校から帰ったら田んぼの手伝い。通っていた湖東の学校の運動場も畑にして、サツマイモやカボチャを植えていた。そんなことをしてなんとか食糧難を乗り切っていた」と野村さんは回顧する。
ある日の朝には日本とアメリカ飛行機の空中戦を目撃し、「ブワーッと2つの飛行機が粉々になって飛び散る。ちょうど朝日があたってね、キラキラと輝きながらグワーッと落ちていった。びっくりして家の中に飛んで入った。恐かったです」と。それでも、落ちた米軍飛行機を好奇心のまま見に行くと、操縦席の前に若い女性の写真があった。「それを見て、敵の人だったけれどかわいそうだと本当に思った。戦争のむごさを感じた」と力を込めて語った。
1944年ごろになると通学用靴の配給も不足し、わら草履を履いていったがすぐに擦り切れてダメになった。文房具も不足して習字には新聞紙を使った。
終戦のラジオはたくさんの人とともに家で聞き、「くやしかったけれども明日からは飛行機が飛んでこないんだ」とほっとした。
戦後79年。野村さんは「戦時中のことを具体的に話せる語り部は少なくなってきた。しかし、核兵器の犠牲になった国民として、一生懸命、世界に平和と核兵器の根絶を訴えていく必要がある」と訴えた。(矢尻佳澄)







