豊臣政権の対「家康」防御拠点
◇甲賀
豊臣政権によって築かれた水口岡山城(甲賀市)について、伝三の丸は居住空間の可能性が高いと、城跡で調査を進める甲賀市教育委員会が発表した。また、東国への備えとして、周辺の寺院から瓦を転用して急ピッチで築城が進められたことが、遺構の状況からあらためて浮き彫りになった。(高山周治)
内外の不安定な情勢受け
寺院から瓦転用し急いで築城
秀吉が水口岡山城を築城したのは天正十三年(一五八五年)で、家康と激突した小牧長久手の戦いの翌年にあたる。天下統一事業を本格化させようとしていた秀吉にとって、東海地方の家康に対する「最前線防御ライン」であり、直接支配に乗り出した甲賀郡で力を見せつける「権威の象徴」でもあった。
城主ははじめ、武将で重臣の中村一氏が入城し、政権の安定に伴って、行政手腕に長けた増田長盛、次いで長束正家が入った。関ヶ原の戦い(一六○○)では東軍に囲まれ開城し、城主・正家は出身の日野で自刃。その後は徳川幕府によって廃城、徹底的に破壊された。
発掘調査は、同市教育委員会が平成二十四年度から続けているもので、これまでの調査で多用された石垣や瓦、天守級の建物跡が見つかるなど、織豊系城郭の特徴が明らかになりつつある。
今回の調査は、伝本丸南側斜面と伝三の丸虎口で実施された。それによると、伝三の丸では、出入り口である「虎口」の構造が、戦いに不向きな「平入り」だったことが判明し、居住空間の可能性が高くなった。
伝本丸南側斜面では、築城時に周辺の寺院から転用されたと考えられる、「妙法寺」銘の軒平瓦などが多く出土した。このことから、秀吉が不安定な情勢を受けて、資材不足を転用で補い、急いで築城した様子がうかがえる。
また、本丸や大手道周辺に石垣を重点的に使用して、「豊臣政権の権威」をアピールする一方、大手道より西側の部分については、斜面の裾部分から岩盤を削りだし、石垣と同じ効果を狙っていたことが分かった。
甲賀市教育委員会は「伝三の丸の虎口の様相が明らかになり、水口岡山城の全容がわかってきた。また、新規に築城された城でありながら、非常に多くの転用材が用いられていることが特徴的で、同時期に築城された八幡山城などと異なる。天正期の豊臣政権の城郭を考える上で、非常に重要な知見を得ることができた」としている。









