翦風号を甦らせる会 中島 伸男
民間飛行場の夢に全資産を賭けた熊木九兵衛
■幼名は亀之助
熊木九兵衛は明治二十一年(一八八八)、金屋大通りに面した油商「油九」の長男として生まれた。幼名を「亀之助」といった。油九は八十軒余の借家を所有する資産家であった。亀之助は県立第一中学校(現・彦根東高校)を卒業後、一年間軍務に服し、予備役少尉の肩書きを得たのち家業に励んだ。
亀之助二十二歳のとき父が亡くなり、「九兵衛」を襲名した。翌年、二十三歳で坂田郡六荘村室(現・長浜市室町)の旧家から妻・志津を迎えた。
■荻田常三郎と九兵衛
熊木九兵衛の運命を大きく変えたのは、荻田常三郎の沖野ガ原での飛行会である。当時、九兵衛二十六歳、常三郎二十八歳。
二人の最初の出会いが、いつどこであったのかは分からない。おそらく、荻田がフランス帰りの新進飛行家として京都で活動をはじめたころ、九兵衛は荻田に積極的に接近していったのであろう。
九兵衛は荻田の信頼を得て、鳴尾(西宮市)から八日市駅まで、翦風号を貨車輸送するさいの責任者になっている。
十月二十二日、沖野ガ原での荻田常三郎の飛行会は、数万という大観衆をあつめ成功した。祝賀会席上、横畑耕夫(よこはた・たがお)町長が「沖野ガ原を民間飛行場とする」ことを主唱、その場で熊木九兵衛は幹事にえらばれた。
十一月には「翦風飛行学校設立期成同盟会」が結成され、飛行場用地の買収がはじまった。しかし、翌大正四年(一九一五)一月三日、深草練兵場(京都市伏見区)から翦風号で飛び立った荻田常三郎は、エンジン不調のため高度四〇メートで失速し地上に激突、墜死した。
■「復元」を宣言
この悲報のなかで、熊木九兵衛は翦風号を「改修復元する」ことを宣言した。設計図が残っていた上に、プロペラをはじめ翼の布やエンジン部品など、荻田が予備を用意していたことが分かったのである。
八日市町でも事業継続の是非につき、飛行場計画委員全員の協議をおこない「継続する」ことを決議した。
大正四年二月二十二日付けの新聞に、つぎのような記事が出ている。
「来る四月一日、八日市の新飛行場で、第二翦風号の起工式を挙げることとなった。第二翦風号の再興は熊木九兵衛氏と、荻田飛行士の助手、伊崎省三氏の二人がこれに当たり、翦風号の残骸は荻田氏の遺族から両氏に任されることになった。」
■見事に完成はしたが
翦風号復元作業について熊木九兵衛は、荻田常三郎の元助手・伊崎省三やその友人(平岡達蔵・岩名政次郎)など、青年数名を協力者として雇った。
当時の飛行機は木造・布張りである。主骨として北海道産のトネリコ、桁はシラカバ、中骨にアメリカマツを取り寄せた。エンジンの修理は、大阪でオートバイの発動機を製作していた島津工場に発注した。作業場は、八日市町役場に付随する修交館(現・八日市コミュニティセンター付近)が使われた。
機体復元のための諸材料費・エンジン修理費、さらに青年たちの雇用経費などについて、町費からの支出はなかった。これら一切を負担したのは熊木九兵衛であった。
大正四年四月十九日、飛行場地鎮祭が行われた。
飛行場用地買収費・整地費は、町長をはじめ町議会議員全員の連帯責任で借り入れをおこなった。
六月初旬、第二翦風号の機体が完成し、エンジン修理も七月に完了した。初代翦風号より、第二翦風号は機体重量が二割も軽減された。
ただし、根本的な問題があった。熊木九兵衛や元助手の伊崎省三らは、試験飛行はもちろんのこと滑走する技術すら持っていなかったのである。第二翦風号は、数ヶ月間、いたずらに沖野ガ原の仮設格納庫に収容されたままになっていた。
■ナイルスを呼ぶ
そのころ、アメリカの民間飛行家チャールス・ナイルスが来日し、各地で航空ショーを実施していた。大正五年一月、ナイルスが西宮・鳴尾競馬場で航空ショーを開催しているとき、熊木九兵衛は鳴尾に出掛けナイルスに出会って第二翦風号への試乗を依頼した。
大正五年一月二十九日、九兵衛のつよい要請でチャールス・ナイルスが来町。彼は、三時間以上かけて機体の点検を行い安全を確認、試験飛行を実施した。当時の町会議員・清水元治郎はそのときの様子をつぎのように日記に記している。
「午後五時より五分間、飛行場の上空を二回旋回して見事着陸したり。万歳の声、喝采の響き天地を震動せしむ。」
熊木九兵衛をはじめ、飛行機についてはまったくの素人たちが造った第二翦風号である。本当に飛ぶことができるのか、疑問視されても仕方がなかった。それが見事に飛び立ったのである。試験飛行の現場にいた人たちが大喝采をしたのも当然であった。
チャールス・ナイルスは、その後、近江兄弟社のヴォーリス邸を宿舎として、三月中旬まで沖野ガ原で第二翦風号によるさまざまな飛行を試みている。ナイルス招聘の費用はすべて熊木九兵衛の負担となっていたものと思われる。
■チャンピオン来町
ナイルスは再訪を約束し帰国したが、その年の六月、ウイスコンシン州で催された航空ショウで搭乗の飛行機が空中分解し事故死した。
飛行場と第二翦風号はのこっている。しかし、誰も飛ぶことのできない無用の飛行場であった。
そのころ、陸軍では所沢飛行場(埼玉県)についで、各務原台地(岐阜県)をわが国第二番目の飛行場として整備し、さらに第三番目の飛行場設置についても検討を行っていた。八日市町では、このニュースを聞くと、ただちに陸軍飛行場の誘致に取り組んだ。
時期は明確ではないが、大正座(八日市金屋一丁目、現存せず)で陸軍飛行場誘致の是非につき町民大会が開催されている(奥井仙蔵『八日市と飛行場』)。誘致計画をすすめる町当局にたいし、熊木九兵衛は飛び入り弁士としてつぎのとおり述べた。
「わが飛行場に、米国一流の民間飛行家たるフランク・チャンピオン氏を得たるなり。我等は氏と連携、死力を尽くして沖野ガ原をひとかどの民間飛行場となし、民間飛行学校期成を明言す。」
九兵衛は、当時、全国各地で飛行会を催していた米国飛行家、フランク・チャンピオンと交渉中であった。チャンピオンを中心に、沖野ガ原での飛行学校運営を軌道に乗せようと模索していたのである。
大正六年五月、チャンピオンが八日市にきた。歓迎会の席上、チャンピオンは、「将来の日本飛行界のため、この八日市での事業にぜひ貢献したい」と抱負を語った。
しかしその年の十月、チャンピオンは高知市の飛行大会で宙返りを試みたとき第二翦風号の翼が根元から折れ、高度一二〇〇メートルから機体とともに墜死した。「人」も「飛行機」も失われ、飛行場のみがのこった。
九兵衛の「夢」は完全に潰え去った。第二翦風号の製作費用、チャールス・ナイルスやフランク・チャンピオンの招聘費用、さらに彼らの活動にかかわる諸費用など、ほとんどすべてを九兵衛が負担してきた。
先祖代々、所有していた借家はすべて売却、自宅も他人の手に渡った。このころ、妻・志津の実家から「絶縁」を言い渡されたという話がつたわっている。
■郷里を去る
大正八年版『彦根中学校同窓会名簿』を見ると、熊木九兵衛の住所は「東京市神田区」になっている。チャンピオン墜死後、彼は単身上京、間もなく妻子を東京に呼んでいる。民間飛行場の夢が絶たれたうえ、すべての資産を失った九兵衛として、そのまま郷里に踏みとどまる気になれなかったのは当然であろう。
九兵衛の東京での職業は「松永フォード自動車販売所勤務」(昭和十年版『同窓会名簿』)になっている。第二翦風号に携わっていた彼の知識が、少しは生かされる職業であったのか。ただし、家族に飛行機の話は一切しなかったという。昭和十九年四月十五日、熊木九兵衛は脳溢血のため死去。五十五歳であった。
いっぽう、八日市町をはじめ御園・玉緒・中野の各村は滋賀県と連携し、航空第三大隊誘致活動を強力に展開した。大正十一年一月十一日、旧民間飛行場の十倍(五十万坪)という広大な面積を誇る陸軍八日市飛行場が開設された。
■熊木九兵衛の夢
九兵衛の夢は「無謀すぎた」というべきか。あるいは時代が彼に追いつかなかったのか。翦風号飛行一〇〇周年にあたり、草創期の民間飛行家・荻田常三郎の業績とあわせ、飛行学校や民間飛行場の開設というおおきな夢を追い続けた熊木九兵衛の足跡をも、私たちは忘れてはならないと思う。
(荻田常三郎・熊木九兵衛にかんする詳しい情報は、中島伸男『翦風号が空を飛んだ日』=八日市図書館蔵=をご覧下さい。)










