学童疎開と大阪大空襲
【東近江】 県平和祈念館の開館14周年記念weekがこのほど開催され、戦争体験者の中原敏雄さん(93)=近江八幡市=が学童疎開や空襲に遭った体験を話した。
大阪市生まれの中原さんは、日本の敗色が濃厚になっていた1944年(昭和19年)9月、国民学校6年生2学期のときに現在の近江八幡市へ学童疎開した。
疎開生活で一番うれしかったのは、初日の食事でおはぎが出されたことだ。
満足な食事ができなかった当時、「あんこが、あんなにおいしかったことがない。そのためか、今もおはぎや、あんころもちが大好き」と話す。
翌年3月、中原さんは中学進学のため大阪へ戻った。すでに市街地の半分は空襲で焼け野原になっていた。
空襲のあった朝、中学1年生だった中原さんは学校から帰宅させられた。自宅に飛び込むと焼夷弾が天井を突き破って座敷に突き刺さった。
空襲は次第に激しくなり、バケツをかぶって玉造方面へ父親と必死になって逃げた。夕方になって、自宅があった場所に戻ると、跡形もなく燃えてなくなっていた。
この時の空襲で、教科書を譲ってくれた中学2年の男子生徒は、学校を守るため残り、防空壕への直撃弾で亡くなった。
教科書は今も大切に残している。「家が燃え、教科書をくれた上級生が亡くなった悲しい思い出。空襲は逃げ回った記憶しかなく、今もサイレンの音を聞くとびくっとする」と声を震わせた。
世界情勢がきな臭くなる中、危機感を募らせている。「戦争を起こさないようにするには、どうすればいいのか。自分の頭で考えてください」と訴えた。






