寄稿 中島 伸男
大関「手柄山」の相撲絵
このころの彼の錦絵が安村家に残っている。
錦絵というのは江戸で流行した多色刷りの浮世絵版画で、葛飾北斎・喜多川歌麿らをはじめ多くの絵師らが手がけ人気力士もその題材になった。現存する手柄山繁右衛門の錦絵は、縦三十七センチ横二十六センチ大の和紙である。
左上に「姫路・手柄山繁右エ門」と書かれている。藍染めの褞袍(どてら)風の着物に羽織をはおり、唐草模様の入った帯をしめ太刀・脇差を差している。羽織には大きな四つ目菱の紋が入っている。四つ目菱は佐々木氏の家紋である。今代の生家は武士を名乗っていた時期もあったといわれ、四つ目菱の紋を付けていてもおかしくはない。
手柄山繁右エ門は、面長でやや優男風に描かれている。ほかの手柄山の錦絵も同様な風貌なので、それなりに彼の風貌ならびに性格の一面をとらえていると見てよいだろう。
『古今名力士百傑』(高永武敏一九八二年・恒文社)に手柄山繁右衞門(湖東山)の評伝があるので紹介する。
「寛政十年、近江国(滋賀県)出身、文政七年勇山岩右衞門と名乗り、文政十年小柳春五郎と改名。文政十二年入幕、天保七年大関、八年姫路藩かかえとなり手柄山繁右衞門と改名。天保十二年姫路藩を解かれて湖東山文右衞門と改名、天保十四年武隈を襲名し武隈文右衞門となる。出場二十九場所、三場所優秀、勝率七割弱。強豪大関とはいえないが下位力士に取りこぼさず阿武松引退後の大関を維持した」。
前記『古今名力士百傑』には江戸期の力士二十四名が紹介されているが、彼はその十四番目に名前が上がっている。
手柄山(のち湖東山)は最後まで横綱の免許を受けることがなかった。このころの横綱とは、関取の順位を表すものではなく、土俵入りのときに黒白に撚り合わせた綱に紙垂のついた「横綱」を締めて登場できる選ばれた大関に与えられた特別免許であった。相撲ぶりに派手さがなかったため、勝率はよかったが横綱免許を得ることができなかったのかも知れない。
大関「湖東山」から年寄「武隈」へ
前記したように、天保十二年(一八四一)十月に至って、手柄山は姫路藩のお抱えを解かれた。すでに四十四歳であった。
姫路藩のお抱えを解かれた段階で、彼は手柄山の四股名を返上し、出身の地にちなんで湖東山文右衛門と名を改めた。華やかな江戸相撲の力士としての自分の人生も、そろそろ終盤に差し掛かかりつつあることを自覚したのだろうか。ふるさとへの思いがつのり、自分が近江・湖東の出身であることを角界の歴史に刻みつけておきたかったのだろうか。
ただ、私には一つの疑念があった。
文右衛門は手柄山から湖東山に名を改めているが、江戸時代末期に琵琶湖東部地域を表す名称として「湖東」という呼び方があったのだろうかということである。
いま「湖東地方」といえば、およそ彦根市から東近江市、そして竜王町域までを指している。野洲市以南は「湖南」である。こういった琵琶湖を中心に、近江を東西南北に区分する呼び方が江戸期に存在していたのだろうか。『日本地名大辞典(滋賀県)』には「湖東」の地名は掲載されていない。滋賀県教育委員会文化財保護課に電話を入れた。同課の井上さんが対応して下さって、幻の名窯」と呼ばれる井伊藩直営の「湖東焼」の存在、さらに川合寺(現・東近江市)に居を構えていた桜を描く女流画家織田瑟瑟(安永八年~天保三年)が自らを「湖東織田氏娘」と名乗った例などを示して下さった。これで、江戸期に「湖東」という比較的広い地域が存在し、彼は郷里の「湖東」を自らの四股名としたことが明確になった。
彼が「大関・湖東山」で土俵をつとめたのは一場所だけで、翌天保十三年(一八四二)には湖東山を名乗りつつ関脇に順位を落としてしまった。
関脇転落直後の天保十三年二月場所で、彼は七勝一引き分けで優勝した。しかし、ついに大関に復帰することはなかった。番付編成などで圧力をかけてくれる大名の後ろ盾を失った悲哀を、彼は感じていたにちがいない。
天保十四年十月、湖東山は年寄・五代目「武隈」を襲名し四股名も武隈と改めた。年寄をつとめ、なお二年間は関脇として土俵に上った。
そして、弘化二年(一八四五)三月の場所を最後として土俵を去り、年寄専任となった。
江戸相撲に登場していらい足かけ二十三年間、土俵に上がっていたことになる。引退時の年齢は四十九歳であった。
湖東山より一世代早く大活躍した怪力の大関・雷電為右衛門が引退したのは四十五歳であり、ほぼ同期の不知火諾右衛門の引退は四十四歳である。だから、彼だけが格段に高年齢だったとはいえないようだ。
弘化四年(一八四七)出版の『相撲改正金剛傳』(相撲博物館所蔵)に、当時の年寄名五十四名が記されていて、そのなかに年寄・武隈文右衛門の名前が見出せる。
湖東山改め年寄・武隈が、のちの大関(明治三年、横綱免許)の鬼面山谷五郎(岩五郎とも)をスカウトし横綱にまで育てたことは、冒頭に記したとおりである。
八日市・堂の森で大角力興行
なお、現役を引退した弘化二年(一八四五)九月に、彼は「大関武隈文右衛門」の名で今堀村において大角力興行を催した。翌三年九月にも、八日市・堂の森で元横綱・阿武松緑之助とともに大角力を興行。このときは「五人掛り角力」(横綱・大関などに五人の格下力士が挑む余興)も行われた。
これらの記録は金屋村「山之神講入用覚帳」(『八日市市史』第三巻・第九章第二節)に記されている。武隈が東近江地域で相撲興行を二度にわたり行っているのは、市場町八日市の賑わいを熟知していたからと考えられる。武隈墓を建碑した鬼面山谷五郎がこれらの興行に参加していたかどうかは、同「覚帳」では判明しない。
弘化・嘉永・安政といえば、当時の先進諸国がわが国の開国を迫り浦賀・長崎に度々姿を現し世相騒然としていた時期。しかし、いっぽうで庶民は、芝居や狂言そして大角力興行を楽しむ余裕を維持していたことが伺えて興味深い。
安政五年(一八五八)六月二十五日、年寄・武隈(元大関・湖東山)死去。六十一歳であった。京相撲から江戸相撲へ。相撲一筋で通した生涯であった。安村家の過去帳には「高誉勇山哲道信士」「俗名武隈文右衛門或ハ勘六」と記されている。戒名にある「勇山」は江戸相撲二段目に付け出されたときの四股名である。
青山町・川副家にある大関「湖東山」の戒名
江戸末期の相撲界で活躍した関取、東近江出身の大関・湖東山、のちの年寄・武隈については前述したとおりである。だが、もう一つ、東近江市青山町・川副善平家にも大関武隈の位牌が伝わっていることを知った。滋賀報知新聞紙上で「大関・湖東山」にかんする私の文章を読まれた川副善平さんから電話を頂いたのである。
平成十七年二月八日、相撲史研究家・竹森章さん、そして当時の滋賀報知新聞記者であった村田洵一さんとともに川副家を訪ねた。今代町の安村家・青山町の川副家、その両家に同一人物の位牌・伝承があることについてお話を聞くためである。
川副善平さんは子どものころ近所の青山安治郎さん(元・西小椋村長、故人)からこんな話を聞いておられた。
「お前とこは、『いかくま(大きい「熊」または「隈」)』という大関が生まれた家や。『いかくま』が家に帰ってきたとき、上がり框(かまち)に立って、まわりの子どもらに『わしを土間に突き落としてみよ。そしたら、みんなを江戸へ連れてってやる』と言った、という話や」。また、川副さんは「『いかくま』は、関取のころ今代のある人から経済的な支援を受けていたとも聞いている」とも話された。
仏壇に並んでいたお位牌のうちの一つを拝見させて頂いた。
位牌の表には「高誉勇山鐵道禅定門霊位」、裏面に「安政五年午六月二十五日・嶽熊文右衛門」と記されている。東近江市今代町・安村庸家の過去帳には「高誉勇山哲道信士」の戒名と「安政五年午六月二十五日・俗名武隈文右衛門」と記されている。表記はすこし違うが、今代・安村家のものと同一人物、すなわち大関・湖東山(年寄・武隈)の位牌であることは間違いない。
竹森さんは、「武隈が江戸で亡くなったとの知らせで、ゆかりの安村・川副両家が、それぞれに戒名を刻んだ位牌をつくられたのだろう」と推定されたが、それ以上の仔細を明らかにできる史料は残されていなかった。
なお、昭和三十四年に今代町・安村家を訪ねた相撲史研究家・大村孝吉さんが遺した書き付けには、湖東山の戒名を「高誉勇山鐡道禅定門」と記している。この戒名は青山町・川副家に伝わっているものである。
大関武隈が没した安政五年(一八五八)から、二百年近い歳月が流れている。なぜ彼の位牌・戒名が二つ伝えられているのか、その理由を明らかにする手立てはまったくない。
最終的に明確にできるのは、大関・湖東山を名乗った関取は、文政七年(一八二四)「勇山岩右衛門(いさみやま・がんえもん)」の名で江戸相撲二段目からスタート、入幕後は「小柳春五郎」、そして関脇「小柳長吉」さらに大関へと進んで「手柄山繁右衛門」を称した。最終的に大関「湖東山文右衛門」を名乗るがこの頃が頂点で、関脇「武隈文右衛門」のときに引退したということである。
引退後は年寄・武隈として、既述のように今堀や八日市「堂の森」(いずれも東近江市)などでも相撲興行を催していた。
武隈はすでに述べてきたように今代(今田居)村の出身とされる。文政十三年(一八二六)三月、将軍家斉の上覧相撲出場力士一覧「相撲名前掲載書」に、「江州神崎郡今田居村・小柳春五郎・三十三歳」と記されていることなどがその根拠となる。
なお、相撲解説者に武隈親方を称する元大関・豪栄道がおられるが、相撲博物館にお尋ねすると江戸期の大関武隈とは無縁とのことである。








