終戦の日 防空壕と神職・父の思い出 中島 伸男
昭和20年(1945)6月18日付けで八日市町長・宮師惣治郎が各区長・町内会長に宛てた文書(写)が私の手元にある。
「防空態勢ノ急速整備ニ関スル件」と題したもので(以下、原文の片仮名は平仮名に改めました)、「皇土(日本のこと)爆撃は日一日とその頻度を増しその範囲を拡大し戦力の源・生産源たる各地に大挙来襲の公算大にして」「何時(なんどき)、本地域(八日市地方のこと)を急襲するやも計られず」「急速に整備強化相成る様、徹底指導、相成度(あいなりたく)」とある。
具体的な指導点として、つぎの事柄を特記している。
(一)消防並びに救出・救護器材の増備
梯子(はしご)・スコップ・鍬・手斧・鋸(のこぎり)・担架・その他
(二)各戸防火用水準備量は既に示されるも、之を更に各所に配置し置くこと。
(三)窖(あなぐら=地下に掘った穴)の急速設置
各戸、一個以上、必ず設置すること。窖に収納すべきものは日常必要なる衣料品・食糧品・炊事用具・鍋釜・履物等。
以上の文書が発出された昭和20年とは・・・。
3月10日未明、「空の要塞」と呼ばれたB29約300機による東京への焼夷弾による無作別爆撃があり、下町を中心に火の海となった。十万人近い人々が犠牲となり被害家屋は約27万戸、約100万人が焼け出された。同月12日には名古屋・13日には大阪が同じように無差別爆撃による壊滅的な被害を受け、次第に地方都市をも標的となっていった。
当時、私は国民学校(現・小学校)5年生であった。
近所の人が「飛行場があるから怖い」と話していた。
家々の軒先に「防火水槽」と呼ばれる一辺1メートルほどのコンクリート製・箱型の水溜めや、赤く塗られた小さな防火用バケツ数個が備えられていたことを覚えている。
しかし、B29による大規模な無差別の焼夷弾爆撃に対して、国の指導した防火活動に従事した人たちこそが真っ先に犠牲になったことを戦後知った。
私にも、防空壕で恐怖に震えていた記憶がある。
昭和20年7月25日の朝であった。空襲警報のサイレンなしで、突如頭上に轟音が響き渡った。家の裏庭に掘ってあった防空壕に母と一緒に飛び込んだ。つづいて父が「ひどいことを、しよる~」と叫びつつ転がり込んできた。約1時間、何も状況が分からないまま私たちは防空壕の奥に身をひそめていた。
この轟音は、米艦載機グラマン来襲に対し陸軍八日市飛行場に駐留していた飛行第二二四戦隊が応戦したことによるものであることをあとで知った(28日付新聞に掲載)。
しかし、防空壕への避難も良し悪しで、都市部での焼夷弾爆撃では大火災によって蒸し焼き状態となり、かえって危険であったという。
昭和20年6月から8月上旬にかけて、滋賀県内各地で20回に及ぶ米軍機の来襲があり、とくに7月24日にはB29による石山・東洋レーヨンへの模擬原爆投下があり16人が死亡、100人以上の負傷者が出た。
しかし、政府・軍部は前掲のように戦争末期となっても旧来の防空体制を国民に求めていたことに驚く。
(3)窖(あなぐら)の急速設置のことは覚えがない。
空襲で家屋が全焼したときの備えとして、各自、数日分の衣服・食糧などを地下に保存しておくようにという指示であったと推測するが、防空壕を掘るだけで精一杯。だいいち、衣料品・食糧品はすべて配給に頼っていたし、その配給すら途絶えがちで収納する「余力」がなかった。
8月15日正午、終戦にかんする詔勅放送があった。ラジオを設置している家の前に人々が集まり、少年であった私も大人たちの輪の中に加わった。だが、ラジオは雑音が多く詔勅の言葉も難しくて意味が分からなかった。しばらくして、日本が戦争に負けたらしい」という話が伝わってきた。子ども心に「これから、どうなるのだろう」と、大きな不安を抱いて青い夏空を仰いだことを思い出す。
昭和20年8月22日付で各区長・各神職宛に、八日市町長名で出されたつぎのような文書も遺されている。
表題は「大詔煥発・戦争終結奉告祭竝びに玉体御安泰祭執行に関する件依頼」となっている。
本文は次の通り。
「表記の件、二ヶ月以内に各神社に於いて氏子総代及びその他関係者参集の上、祭典執行相成る様、所轄地方事務所長より通牒の次第も有之候条御了承の上、該祭典執行相成度。祝詞は各神社の神職に於て適宜作成相成度候」
当時、私の父が野々宮神社神職を務めていた。
地方事務所長ならびに町長の要請に、父がどのような祝詞を作成し、どのような式典を執り行っていたのかを知る手掛かりは、残念ながら今では何も残されていない。
_以上、紹介した文書は山田藤雄氏宅(東近江市八日市町=御祖父は第二代八日市市長)に保存されていたもので、2022年、八日市コミュニティセンターで数日間展示されていた多数の文書の一部であり、中島が写真撮影した。
_当時の町長・宮師宗治郎氏は、昭和19年8月3日就任・同21年11月23日退任となっている。(『八日市市史』第四巻)





