類例のない「祈願所として保護」
【東近江】 百済寺(東近江市百済寺町)の古文書調査で、行方が分からなくなっていた織田信長の朱印状が約100年ぶりに見つかったと、東近江市が発表した。担当した同市森の文化推進課の明日(あけひ)一史参事は、特殊な点として「寺院の権利、財産を保障するのみでなく、信長の祈願所とした点が興味深い」としている。
この朱印状は、1568年(永禄11年)、足利義昭を奉じて岐阜から大軍を率いて上洛途上にあった信長が、近江南部を支配していた六角氏の拠点・観音寺城を9月13日に落とした後、同月22日に百済寺の安全を保障するため出したもの。
同市によると、1929年(昭和4年)刊行の「近江愛智郡志」に掲載されて以降、行方が分からなくなっていた。木箱に入った状態で2023年夏に寺で見つかり、同市へ調査の依頼があった。
朱印状は楮(こうぞ)紙で、大きさは縦31センチ、横43・6センチ、信長の「天下布武」の朱印が押されている。内容は(1)百済寺の諸事、寺法の保障、(2)寺の財産の保障、(3)百済寺を信長の祈願所とする―の3条。代筆したのは、筆跡から信長の祐筆(秘書官)、武井夕庵(たけい せきあん)とみられる。
百済寺を信長の祈願所とするのが、他の寺社へ出した禁制文書とは異なり、「百済寺は信長の祈願所である。他のどのような者が来たとしても、承知してはいけない」としている。
ちなみに、信長の祈願所として保護された百済寺だったが、5年後の1573年(天正元年)、鯰江城(同市鯰江町)に立てこもった六角氏を支援したのが露見してしまい、信長の焼き討ちにより壊滅した。







