八日市新地の繁栄と掟
時期が少しばかり前後するが、大火からの復興がようやく終り、新しく生まれ変わった市場まち・宿場まち八日市の商品・物産の流れが元に戻ったとき、次に求められたのが、娯楽、歓楽であった。
いわゆる花街、遊郭の開業である。それというのも、元々八日市には、八風街道や御代参街道を行き交う旅人が、一夜の息抜きをしてゆく場所として、江戸期からそれなりの遊女宿は存在していたようだが、正式認可の遊郭になったのは明治十八年六月以降のことであった。
ところで、大火後の八日市のまちが復興していく過程で、周辺から多くの土木・建設関係の人間が流入してきた。その中には永源寺の山里に住む山持ちや木材業者もいて、そのうちの何人かは復興成金で八日市に住み着き、新しく商売を始める者もいた。そうした中、一八八五(明治十八)年六月、滋賀県に「貸座敷及娼妓営業取締規則」が定められ、延命寺山の麓一帯の地域を「延命新地」として貸座敷営業が許可された。それ以降、これまで市神神社付近に数軒しかなかった娼妓宿が、徐々に増えてゆき、近江鉄道の八日市駅が開業した明治三十二年頃には、貸座敷業が三十軒を数えたという。その多くが、小料理屋や木賃宿(旅籠)から転業したものであったが、新規開業した業者の中には永源寺の木材成金もいて、「木屋龍楼」とか「木屋房楼」という屋号の店がそれに当る。
ちなみに、八日市の東部、鈴鹿山系の麓にある永源寺の山里には、山林関係業者(木こり、木地木工、木炭作り、林業、製材など)が多くいたが、明治以降になってから、火災とは関係なくかなりの人数が八日市のまちへ移住してきている。政所村の小椋佐五郎や和南村の中嶋常三郎もそうした移住者の一人であった。
こうして八日市は物流と人口の増加が重なり、市場まち、花まちとして二重の賑いで栄え、これに比例していざこざやもめ事も次第に目立つようになってきた。そうなると、公式の警察ではすべてに目が届かず、先にも書いた「東屋組」のような、まちを裏側から取り仕切る顔役が必要になってきた。そこで話を戻すが、小椋佐五郎の場合は、父親が八日市復興のための木材需要で儲けたので、その金を元手に新地で娼妓宿を開業したのだが、その跡を継いだのが佐五郎であった。彼は、大正元年には新地同業者組合の代表になっていて、翌大正二年の師走に招福楼で組合の臨時会合があった。八日市の花まち・繁華街、延命新地の防災と警備の体制が決定した。
遊廓の新地が頼りにした「用心棒」についてであるが、八日市を含む県下各地域の街角には「明治新政令覚書板」という高札が掲げられ、それには有名な「五カ条の誓文」も書かれてあった。一八七一(明治四)年には、大津県から「御新律条目」というのが檜板に書かれて示され、いわゆるお触れ書きであるが、その項目の一つに「賭博」について、次のように書かれていた。
「一、 凡そ財物を賭け、博奕致し候者は多少を論ぜず、杖罪に処し、その場の財物は取り上げし付くべき事。ただし、博奕宿を致し候者はその場に携わらずとも同罪にあるべき事」
―これは、賭け事行為を取り締まる条項で、江戸時代の村掟にも、近・現代の刑法においても犯罪とされているもので、博奕(ばくち)を稼業とする者たちをきつく牽制するものであった。しかし、日本中どこのまちにも、任侠道を歩み、博奕を仕事(しのぎ)の一部にしている者たちがいて、八日市も例外ではなかった。彼らは金持ちの商家・農家の土蔵などを賭場にして、旦那衆や荒くれ者を相手に博奕で稼いで生活していたのである。
明治二十八年一月十日、八日市に侠客「東屋一家」が誕生した。組長は西村林次郎で、ナンバー二には実力派の松尾虎太、そして若頭には戸嶋儀助という総勢四十六人の親分・子分が、新地の検番近くに組一家を構えた。
日本は明治から大正と時代が流れ、ついに軍国主義が最高潮となる昭和を迎えた。その間、八日市の沖野ヶ原には県下唯一の民間飛行場が建設され、やがて、陸軍航空隊の誘致が実現し、軍需景気で八日市のまちも賑い、潤い、繁盛したのである。当然ながら、歓楽街延命新地の客数も伸び、昭和十三年頃には、軍人の利用で最盛期を迎えていた。例の東屋組も、その頃は二代目留吉が継ぎ、相変らず八日市の顔役、新地の用心棒として活動していたが、組の仲間が兵役に取られるなど、一家の内部構成には変化が生じていた。





