交通網の発展とまちの変化
明治になってからも、八日市の幹線道路は、御代参街道と八風街道であった。参考までに、昭和二十年までの代表的な道路は次のとおりである。
八日市停車場道(八日市駅―東本町)、高木・八日市線(市辺―永源寺)、八日市警察署道、日野・八幡街道(日野―平田―近江八幡)八日市・御園線(八日市―林田)、玉緒街道(今堀―玉緒)、旭・八日市線(八日市―建部―五個荘)、下田街道(八日市―布施―甲西)、八日市・百済寺線(八日市―御園―愛東)
これらの道路は、八日市と周辺の農村地域を結ぶ道路であり、主として市場まち八日市へ買い物にくる人たちのための道であった。
次に、八日市の北方を東西に流れる愛知川には、明治の中頃まで固定した橋がなかった。このため、大水の流水時や洪水のとき、川を渡っている人がたびたび流され、「人取川」などと呼ばれていた。そこで、木造ではあるが、本格的な橋が架けられるようになった。
明治十一年・中山道の「御幸橋」、明治二十六年・「御河辺橋」、明治三十三年・「八千代橋」、大正十一年・「春日橋」
なお、八日市と金屋の中間を流れている「筏川」は交通のさまたげになると、一九三四(昭和九)年一月、覆蓋(ふくがい)工事が施され、商店街道路となっていった。ちなみに戦後、八日市市になってからは、昭和四十七年、主要地方道の彦根・水口線が国道三〇七号線に昇格し、昭和五十七年には、近江と伊勢を結ぶ江勢道路(八風街道を含む)が国道四二一号線となった。
八日市を発展させたものの一つに近江鉄道がある。明治二十二年に、国鉄東海道線の能登川駅ができると、八日市からも多くの人が歩いて見物に行ったそうだが、近江鉄道は一八九八(明治三十一)年七月二十四日に、はじめて八日市・彦根区間が開通し、翌年一月から営業が開始された。
八日市駅の設置については、清水町の踏切付近と浜野が誘致争いをしたが、浜野の大いなる譲歩・犠牲により、現在地に落ちついたとの経緯がある。その後、近江鉄道は延長され、八日市・日野間、次いで日野・貴生川間、さらには多賀・高宮間、彦根・米原間と次々に開通していった。
大正期に入ると、湖南鉄道が開業し、新八日市駅と近江八幡駅間にガソリンカーが走り、飛行場の発展とともに、昭和五年には新八日市駅から飛行場までも延長された。
太平洋戦争中に近江鉄道と湖南鉄道が合併し、戦後、新八日市・飛行場間は廃線となったが、残りの路線は今日に至っている。
交通網としては、鉄道のほかに路線バスがあり、永源寺バス、安土バス、近鉄バス、神崎バス、玉緒バス、八幡バスなどが運行され、それ以外にも、京阪神定期貨物自動車・名古屋定期貨物自動車・丸谷タクシーなどがあり、こうした八日市を中心とする多くの交通網により、人びとの往来がより盛んとなった。また、郵送手段としては、明治初期まではすべて飛脚であったが、一八八五(明治十八)年、県内に三十四カ所あった宿駅ごとに駅伝営業組合が組織された。明治十九年の八日市駅伝組合の構成は、陸運諸荷物請負業四人、旅人宿五十四軒、人力車夫五十五人、陸運稼業六三二人であったという。





