明治4年の八日市大火
明治四年に起きた八日市大火は鎮火後、お上(まだ地方自治体は未発達)の検分によると、同年五月十八日の午後八時(夜の五つ時)頃、蒲生郡金屋村の指物職、清右衛門の家から(火鉢の不始末が原因)火の手が上がり、火の粉が南東から北西への強風に乗り、八日市側の民家に燃え移り、大きく広がって一晩中燃え続けた。翌朝の八時ころになって、ようやく鎮火したが、被害は次のとおり甚大であった。
家屋焼失総数二六五軒。金屋村四軒、八日市村一二三軒、浜野村一三八件。
この他にも、市小屋九六軒、八日市の宝蔵寺と生蓮寺、浜野の西照寺が全焼した。
ちなみに、火災当時の家並みは、東から西へ流れる駒井川こと筏川を挟んで、北側に八日市村と浜野村が連たんし、南側に金屋村があって、川に沿っては東西に八風街道が通っていて、その道のほぼ中央あたりを南北に御代参街道が貫いていたのである。
ところが、この筏川は一九三四(昭和九)年に「覆蓋(ふくがい)工事」が施され、現在では道路の下に川がある。
大火のあとの復旧・復興は大変で、元の人口・家屋数に戻るのに、およそ十年近くを要したと云われる。ちなみに大火事以前の幕末・明治初期の八日市は、むかし「小脇の八日市庭」と云われた頃の市場が、佐々木六角氏が滅んでからの信長時代以降には、小脇から八日市村・金屋村に移っていて、その中心には当時の三街道、すなわち御代参街道・八風街道・安土街道が交差する八日市・浜野に繁栄をもたらしていた。
とくに御代参街道は、江戸時代約三百年を通して、幕府、朝廷の要人や商人たちの通行(春日局、遊行上人、伊能忠敬など)で賑わい、宿場まちとしても有名になった。そのうえ、八日市周辺の領地(国)支配が複雑であったため、大藩の井伊氏だけでなく、複数の大名・旗本の支配地に多くの人々が往来し、関係する藩の役人や官人、それに商人の行き来が頻繁であった。
後に「八日市焼け」と呼ばれた、この大火災が発生したのは明治維新の四年後であったが、その頃の滋賀県は、大津県のほか、彦根県、水口県、膳所県、西大路県、山上県、宮川県、朝日山県に分けられ、旧の藩主が知藩事として治めていた。これらが滋賀県一本に統合されたのは、翌明治五年九月二八日のことである。そのあとの四年間は区制が実施され、八日市村・浜野村は第六区、金屋村・中野村は第十一区に属していた。この区制は明治十二年には郡制となり、八日市村・浜野村は神崎郡に、金屋村・中野村は蒲生郡に属した。その後も戸長制、連合戸長制などの変遷を経て、明治二十二年には明治憲法の制定に伴う諸制度の改革で、明治の大合併が行われた結果、八日市村は八日市町に昇格した。







