大皇器地祖神社への改称願(君ヶ畑)
集落の中の坂道を登ると、杉の老木に囲まれた大皇器地祖神社(おおきみきじそじんしゃ)が鎮座する。古くは大皇大明神(おおきみだいみょうじん)と称し、明治維新後に「大皇神社」と改称した。しかし、明治十五年十月、滋賀県知事宛てに「社名改称願書」を提出する。つぎのような内容である
「本社ノ名称大皇神社ト言フヲ以テ、世人ヤヤモスレバ木地ノ祖先ナルヲ知ラズ。モシ数百年ノ後ニ至リナバ、恐ラク木地椀祖先ノ神ナル事、人、知ラサルニ至ランカ。此レ実ニ私共ノ遺憾ニ堪ヘザル処ニ候。(『永源寺町史木地師編』)。」
そして、「大皇(おおきみ)」のあとに「器地祖(きじそ)」の三字を加えたいと願い出て同年十二月に許可を得た。大皇器地祖神社という社名には、親王を木地師祖神とする信仰への村民のつよい思いがあった。
同神社所蔵「御縁起」を紹介(一部を現代文に要約)する。
『親王は、貞観十七年(八七五)三月五日に水無瀬宮を発ち近江路を目指された。当時、君ヶ畑は小松畑とよばれ、茅屋(ぼうおく=あばら屋)三戸余りから炊事の煙が立ち上るていどの寒村であった。親王は「この地をわが居所に定める」と仰った。また、三国嶽(現在の御池岳のことか)に登られ一宇を建て金龍殿とされた。親王は、あらかじめ元慶三年(八七九)十一月九日を入寂の日と定められる。都から勅使が来着、お社を建てて「白雲山」の号を賜った。親王が崩御されたのは寛平九年(八九七)二月二十日であった。』
大皇器地祖神社の鳥居脇に石柱が建っていて、正面に「白雲山勅諡大皇大明神御宮」と彫られている。享保十三年(一七二八)に建碑されたもので、「勅諡(ちょくし)」とは「勅命で賜った」という意味。また「白雲山」は、古今和歌集(巻十八)に所載される惟喬親王の和歌「白雲の絶えずたなびく峰にだに住めば住みぬる世にこそありけれ」に基づいている。
蛭谷と君ヶ畑。
ともに「木地師の里」を名乗る。両集落の景観や地形が異なっているように、神社の成り立ちをはじめ、親王をめぐる歴史や伝承も微妙に異なる。しかし、この二つの地区が隣り合って存在していることこそが、東近江の小椋谷を「木地師の里」として全国的に知らしめる大きな理由になってきたと私は思う。
中島 伸男
(野々宮神社宮司)






