中島伸男
■信仰と伝承を運んだ人たち
惟喬親王は、平安時代初期に実在した人物である。
親王は、天安元年(八五七)十四歳のとき元服し、貞観十四年(八七二)二十八歳で出家された。この二つは、平安期に編纂された史書に明記されている。また、水無瀬(みなせ=大阪府島本町)に離宮をもち、淀川にちかい渚の院(枚方市)で在原業平らとともに狩猟や酒宴に興じられたこともあった(『伊勢物語』)。親王、青年期のことであろう。
いっぽう、東近江市蛭谷町・君ヶ畑町には、惟喬親王は木椀やお盆などをつくる轆轤(ろくろ)の技術を考案した方としての話がつたわる。この伝承は全国木地師たちに仕事の誇りをあたえ、親王は篤い信仰の対象として祀られてきた。親王を木地師祖神として仰ぐ信仰を全国に運んだのは、江戸期から明治初年にかけ各地の木地師を巡り歩いた蛭谷・君ヶ畑の廻国人(かいこくにん)たちである。いわゆる「氏子狩り」に従事した人々である。
また、このような惟喬親王信仰のバックボーンになったものは、筒井公文所(蛭谷町、筒井八幡宮・帰雲庵)や高松御所(君ヶ畑町、大皇器地祖神社・金龍寺)に伝えられてきた「惟喬親王御縁起」であった。
「御縁起」は、蛭谷町に一つ(漢文体一巻)、君ヶ畑町に三つ(漢文体一つ、和文体二つ)がつたわっている。
これら「御縁起」の全文は、すべて『永源寺町史』「木地師編・下巻」に収録されている。
この四つの「御縁起」はともに同じ内容になっているのかというと、じつはそうではない。内容を比較・検討してみると、御縁起に語られる親王伝説の内容にはいくつかの相違があることに気がつく。
惟喬親王が小椋谷に隠棲されたとする時期や理由、轆轤を考案された経緯や、さらに親王ご逝去の年代などが異なっているのである。
■蛭谷「御縁起」について
まず、蛭谷につたわる「御縁起」(漢文体、約千百二十字)の冒頭部分を紹介する。
「抑、惟尊親王御位盛和天王奪取議宣親王鱗乱座宛迫身捨宣貞観初暦己卯三月五日階出白馬乗東路飛宣悉達太子壇徳(特)山飛宣不異」
以上であるが、読解が難しい。およその意訳を試みるとつぎのようになろう。
「惟尊親王(「惟喬」)は盛和天王(清和天皇)により天皇の位を奪取された。親王は身を捨て給い貞観初暦(元年=八五九)己卯(つちのと・う)三月五日、都を出て白馬に乗り東路へと飛び給うたことは、悉達太子(シッダールタ=釈尊の俗名)が壇特山に飛び給うたことと異ならない。」
貞観元年の前年、すなわち天安二年十一月七日に清和天皇が即位されている。御縁起は惟仁親王による皇位継承が惟喬親王出奔(しゅっぽん)の原因であったことを暗示している。御縁起の中の「親王鱗乱座宛迫」の七字は意味不明ながら第四皇子・惟仁親王との確執を暗示する。
蛭谷版「御縁起」には、親王が都を出て東路に向かわれたのは貞観元年(八五九)、年齢十六歳のときであったとしている。さらに、御縁起の末尾には、つぎの一文がある。
元慶三己亥(つちのと・い)御歳三十三此山住十九年霜月九日崩御被成(以下、略)
すなわち、親王は小椋郷にて十九年間を過ごされ、元慶三年(八七九)十一月九日、三十三歳で薨去されたというのである。
結果的に親王が水無瀬離宮を経営されていたことや、『伊勢物語』「渚の院」の段に描写された在原業平たちとの交遊の時代が欠落していることになる。
■君ヶ畑「御縁起」について
つぎに、君ヶ畑につたわる三つの「御縁起」のうち、漢文体(約千四百字)のものについて見てみよう。
「謹以 惟喬親王苟位于儲弐不屑世栄欲遁身於丘壑棲心于煙霞也為僧改名算延又名素覚学密教於宗叡受悉曇安然貞観十七乙未年三月五日出水無瀬宮乗白馬東向近江路是偏不異悉達太子脱珍御潜行於壇特山也」
やはり難解な漢文であるが、意訳するとおよそつぎのようになろうか。
「惟喬親王は、いやしくも儲弐(君主の世継ぎの意)の立場におられたが、世俗の栄欲から遁れ丘壑(きゅうかく=「壑」は谷のこと。すなわち山奥)に棲み煙霞のような心でおられた。僧となられ名を算延またの名を素覚とあらためられた。貞観十七年(八七五)三月五日、水無瀬の宮を白馬に乗り近江路を東に向かわれた。これひとえに、悉達太子が壇特山に御潜行になったことと異ならない。」
蛭谷の「御縁起」と大きく異なる箇所が二つある。出奔の理由とその時期である。
君ヶ畑「御縁起」では、「第一皇子という位を捨て世欲から遁れて」出家されたのち、貞観十七年(八七五)三月五日に水無瀬離宮を出発されたとしている。ここには、親王が水無瀬離宮で過ごされた青年期の生活期間が含まれてあり、貞観十四年に出家されたという『日本三代実録』の記録も読み込んでいる。
没年については、つぎの記載がある。
元慶三年己亥十一月九日預定薨日(中略)
寛平九年巳二月二十日安詳薨山住十又九年世寿五十四歳
惟喬親王の歿年を寛平九年(八九七)とするのは『大日本史』に記されており、いらい通説となっている。
いわば、既存史資料との調整が図られたものが君ヶ畑「御縁起」であったともいえる。
■「轆轤考案」と御縁起
惟喬親王が轆轤を考案されたという伝承を、それぞれの「御縁起」にはどのように記されているのかについても注意を払いたい。
蛭谷「御縁起」(漢文体)には、つぎの一行のみでほとんど詳しい記述がない。
「詩歌管弦慰宣公家人々杣人近付器木地作世営」
(親王は)詩歌管弦に慰みをえておられた。公家の人々は杣人に近付き器木地をつくり世を営んだ。(意訳・筆者)
いっぽう、君ヶ畑「御縁起」(漢文体)の記載はつぎのとおりである。
「有所感初製造木地椀教当郷産久長光吉以為営世之業則久長命小椋信濃守藤原久長光吉命小椋伯耆守藤原光吉於此初作椀器鬻于所以親王称椀器之祖也仍蔵皇殿又曰濫觴」
(親王は)感ずるところ有り初めて木地椀を造り、当郷の生まれ久長・光吉に教え以て世を営む業となした。すなわち、久長は小椋信濃守藤原久長と、光吉は小椋伯耆守藤原光吉と名乗るよう命じられた。これに於いて初めて椀器をつくり鬻(ひさぐ=生活の糧とする)こととした。ここに親王を椀器の祖と称える所以である。よって蔵皇殿はまた濫觴(起源)といわれる。
君ヶ畑「御縁起」のうち和文体のものは、親王の轆轤考案と杣人への技術伝授のようすがさらに物語化して綴られている。
関係する一部を、『永源寺町史』「木地師編」から紹介する。
「或る時、山木の実落ちてその脱穀、器に似たるものを見給ひ、忝(かたじけ)なくも宣(のた)まひけるは、此の山、大木の多き所なれば器の木地を作るへきよし仰せけれは、従者の人々、杣人に仰せて近き天狗が谷に入り大なる椋の木を伐り奉りしに御悦喜限りなく、従者の人々及び里人に課して諸の木地椀作らしめ、木地作りの道具をもそれぞれに銘じ給ふとなん。(中略)御教示に随ひ器の木地椀を挽き捧げ奉れは、惟喬親王御覧し末代の宝器なりと御悦喜限りなく(以下、略。文中の句読点は筆者が挿入)」
このように、和文体「御縁起」になると、木地技術創始者としての惟喬親王像が明確に語られているのである。
四つの惟喬親王「御縁起」を比較することによって、親王伝承がどのように生長・発展していったか、あるいは蛭谷と君ヶ畑に伝わる親王物語の微妙な差違がいくつか指摘できるのである。
■「御縁起」到来の前から伝承はあった
蛭谷「御縁起」には仮綴の奥書に「寛永十一年霜月二十七日、岸本村・東村蔵人写之」との書付があり、さらに大岩助左衛門尉重成による「縁起」の来歴がつぎのように記されている(『永源寺町史』木地師編)。
「寛永十六年卯二月五日ニ此巻物を我等肝煎ニて銀千三百三十目ニて買申候也」
もともと「御縁起」は、犬上郡と愛知郡の境界争いのための資料として、岸本村(現・東近江市下岸本町)の東村蔵人から購入されたものであったらしい(『大岩助左右衛門日記』)。
これらの経緯はさておき、この奥書からみて小椋谷に伝わる四つの「御縁起」の原点となったのは蛭谷のそれであろう。
しかし、「御縁起」が小椋谷に到来する以前に、すでに「惟喬親王の木地師祖神信仰」はなんらかのかたちで現地に根付いていたものと推測したい。ゆえに、蛭谷・君ヶ畑につたわる四つの御縁起は、全国木地師の信仰をささえる生命力を維持・拡大しえたのであり、現代にいたるまで語り継がれてきたのである。







