中島 伸男
◇東近江
戦国時代中期に、県境鈴鹿山系の君ヶ畑(東近江市)で銀山が発見された。いらい御池・向山の銅山(東近江市甲津畑町)、蓬谷鉛山(同政所町)、平子・鎌掛(日野町)・富之尾(多賀町)の亜炭鉱山、大河原(甲賀市土山町)のマンガン鉱山などが鈴鹿山中で営まれてきた。
その一つ、政所の蓬谷鉱山(よもぎたにこうざん)は、明治の大実業家・五代友厚(ごだいともあつ)が経営していた。
■蓬谷の「前史」
東近江市政所町の山間部を流れる御池川。集落の北はずれに御池川に合流する宮の谷という静かな谷がある。この宮の谷を集落から二キロメートルほど遡ると、支流・蓬谷がそそぐ。蓬谷一帯には古くから鉛を産出する鉱山があった。
安政二年(一八五五)、備中川上郡吹屋村(現、岡山県高梁市)の河原善九郎が村方と約定をかわし鉱山を経営していた記録がのこる。つづいて、明治四年(一八七一)には摂州東成郡(現、大阪市東成区)の葛城屋安蔵が操業をひきついだ。
しかし、十分な利益をあげることができず、彼らの経営は数年も経ないうちに閉山においこまれた。
■薩摩藩士・五代友厚
この政所蓬谷鉱山に目をつけたのが五代友厚(一八三五~八四)であった。
五代は薩摩国鹿児島郡(現、鹿児島市)の士族。慶應元年、薩摩藩が派遣したヨーロッパ留学生の一人として、彼は一年間、欧州各国の近代工業の状況を視察した。明治維新直後は新政府で働いたが、すぐ実業家として独立した。のちに紡績・商船などの会社を興し、大阪商工会議所創設の中心人物となった。
維新当時、政府は全国各地の鉱山開発を重要施策の一つに掲げていた。五代は明治政府とタイアップしつつ、天和(奈良県吉野郡)、赤倉・栃尾(いずれも新潟県)など、つぎつぎと鉱山の経営にのりだしていた。江戸時代の古い鉱山技術で行き詰まった経営を、西洋の新技術で甦らせようというものである。このような鉱山再開発の対象として、彼は蓬谷鉱山をえらんだのであった。
■火薬の使用
明治六年(一八七三)六月、五代友厚は「代金一万両」で蓬谷の採掘権や鉱山施設いっさいを葛城屋安蔵から買い取った。そして、現地責任者として杉村次郎を政所蓬谷鉱山に送り込んだ。
杉村次郎は嘉永五年(一八五二)生まれの彦根藩士族。維新前後に上京、慶應義塾にまなび鉱物研究をこころざした。五代友厚から蓬谷鉱山の経営をまかされたとき、杉村次郎は弱冠二十一歳であった。
彼は五代の援助をえつつ、ただちに蓬谷鉱山の開発に取り組んだ。
第一は火薬の使用である。それまでの鉱山採掘は鑿(のみ)と槌(つち)だけが頼りであった。
明治六年十一月八日、杉村次郎は滋賀県令(現在の知事)・松田道之に「願」を提出している。
「政所鉛山にて堅石破裂致すべく、火薬相用いたく一ヶ年およそ千貫目ばかり使用ご許容下されたく」
同日付で滋賀県は火薬使用の許可書を出した。即断即決である。おそらく、事前に五代友厚が県に根回しをしていたのであろう。
大水車も建設された。鉱石を粉砕し選別する動力源に使われたと思われる。
■鉱山懲役出張所
さらに、経営合理化案として低賃金で坑夫を確保する方法がとられた。「懲役人」(受刑者)を坑夫として使役することである。
明治六年八月十四日、滋賀県は「政所村鉱山出張懲役所」の設置を決定した。五代友厚が蓬谷鉱山の権利を得たのは同年六月であったから、政所村に「懲役出張所」を設けることは、事業着手前の滋賀県との合意事項であったにちがいない。
明治七年三月、杉村次郎が県令・松田道之にたいし提出したつぎのような「懲役人拝借願」がのこっている。
「これまで懲役人拝借仕り候ほかに、なお二十名ばかり拝借仕りたく願い上げ奉り候。賃金の義は強弱の差なく平均三銭三厘に改定仕りたく、この段、願い上げ奉り候」
当初からの受刑者坑夫にくわえ、さらに二十名の追加派遣を依頼したものであるが、文中の「拝借」ということばには恐れ入る。
明治七年の米価から推計すると、三銭三厘で米が三~四合買えた。ただし食費は賃金から差し引かれたので、受刑者にとってはほとんどただ働き同様であった。
■松田県令の来山
明治七年六月二十五日から二十六日にかけ、松田県令が受刑者坑夫の作業状況を視察するため蓬谷鉱山に来山した。鉱山責任者・杉村次郎が五代友厚に送った書簡に、そのときの模様がつぎのように綴られている。
「(松田県令は)二十五日、御登山に相成り候。山の下より山頂へ建前・精錬所などそれぞれ検分。終わって新坑道出張所において種々試験を御覧。休憩時にブドウ酒を供す。鉱山の広大堂々たるに感じ、これは私(民間企業)の鉱山業にあらず一つの政府なりと賞されたり。懲役人へも懇々と説諭せられたり。翌二十六日、県令自ら鋪衣(しきい=当時の鉱山服)を着し縄帯をしめて坑中に入り、坑夫頭へ詳しく御尋問(以下、略)」
書簡では、当時、受刑者七十名余が鉱山労働に従事していたことが明らかになっている。
明治の初年は、江戸期における受刑者の人権無視が、そのまま引き継がれていた。『日本の監獄史』によると「囚人労働者」には足鎖がつけられていたという。足鎖が労働の妨げになるときは、かわりに「頸輪(くびわ)」の使用が「許可」されていたという。蓬谷鉱山の受刑者坑夫たちは、おそらく頸輪をつけられ鉱山労働に従事していたのであろう。過酷さがしのばれる。なお『滋賀県史』には、政所村鉱山出張懲役所は明治八年九月に廃止、受刑者は大津囚獄(刑務所)に移されたと記す。
明治七年七月、杉村次郎が滋賀県宛てに提出した「道路修繕許可願」が残存する。一定の精錬を行ったあとの生産品を「牛馬にて運送仕りたい」ので、道路の拡幅など必要な改修事業の実施を認めてほしいという内容である。この書類をみると、生産品搬出ルートは、上流部の箕川・蛭谷の両集落をへて萱原・川相(かわない=多賀町)、さらに彦根方面へと向かうものであったことが分かる。
■諸職人三百八人
このころの政所蓬谷鉱山の規模はどのようなものであったのだろうか。
明治十年十二月、杉村次郎が五代友厚に提出した報告書には「諸職人三百八人」と記されている。頂上部から順に六つの坑道があり、ほかに水抜き坑が二ヶ所あった。
安政年間の鉱山労働者は五十人余で坑道が三ヶ所、葛城屋安蔵が経営していたときも総数七十一人と記録されているので、労働者数・坑道ともにあきらかに鉱山の規模は拡大していた。
箕川町の谷田市郎さんが、明治七年に描かれた「政所四方銀谷鉱山新景」という絵図を所蔵しておられる。「四方銀谷」は佳字で、「よもぎたに」と読むのであろう。署名には「鴻夫云々」と記されている。「鴻夫」とは「坑夫」のことであろう。経営が五代友厚や杉村次郎の手にうつり事業が隆昌に向かいつつあることを祝って、絵ごころのある坑夫が描いたものと思われる。
絵図によると建物は三十二を数え、精錬所からはいっせいに煙が棚引いている。絵図の上方には鳥居と祠が描かれている。鉱山の守護神である金山彦命(かなやまひこのみこと)をお祀りした祠であろう。絵図下方には料理屋のような建物があり、一人が舞を舞っているように見える。いまも現地には「寿司屋跡」という地名がのこっているが、鉱山労働者のための料亭もしくは遊郭であったのかもしれない。地元の古老にきくと、鉱山当時の名残をいまにとどめる地名に、「役所跡」「吹屋跡」「監獄跡」などがあるという。
役所跡は宮の谷の川幅が広くなった一帯の山側にあり、いまでも当時の石垣や井戸跡を見出すことができる。「役所」は蓬谷鉱山の本部が所在していたところと思われ、杉村次郎もここで鉱山全体の指揮をとっていたのだろう。
■鉱石断切し細りたり
『滋賀県統計書』(明治十七年版)に蓬谷鉱山の年間精錬高が掲出されている。これによると、明治十二年には銀三十五貫、鉛三千五百貫を精錬していたことが明らかである。しかし、翌十三年の精錬高は銀二十五貫、鉛二千四百貫と減少し、明治十六年になると十二年当時の半分以下に減少している。
明治十二年、五代友厚宛てに提出した杉村の書面には「鉱石断切し、漸次細りたり」などと、かんばしくない表現が散見される。蓬谷鉱山の鉱脈は当時すでに底をつきはじめていたのである。杉村次郎の名前が見出せるのは明治十二年の書類が最後となる。このころ彼は五代友厚のもとから独立し、蓬谷鉱山を去ったものらしい。
明治十八年版『滋賀県統計書』では、蓬谷鉱山にかんし「本年(十七年)をもって廃鉱、精錬出来高なし」と記している。十年余の操業ののち閉山となったのであった。
■その後の五代と杉村
五代友厚はこのころ病をえて、東京の自宅で療養に専念していた。そして、あたかも蓬谷の廃鉱にあわせたかのように、明治十八年六月五十一歳の生涯をおえた。
五代友厚のもとを去った杉村次郎は、明治十七年に面谷鉱業会社(福井県)を設立、さらに明治二十年には東京鉱業株式会社社長に就任した。このころ、工手学校(現、工学院大学)の設立にも参画している。近代鉱工業の発展とともに生きた杉村は、明治二十八年、四十四歳で死去した。彦根市郊外天寧寺の奥まった竹林に墓所がある。
政所町・永徳寺に明治二十八年付の「政所鉱山備付器具目録」という書面がのこされているので、五代友厚や杉村次郎らによる事業終了後も小規模な採掘が断続的につづけられていた模様である。しかし詳細は不明で、以後、蓬谷鉱山にかんする史・資料はない。
明治初期、新しい資本投下や「技術革新」で取り組まれた蓬谷鉱山であったが、いまではわずかに山中に幾層かの石垣をのこすのみである。人々の記憶からも鉱山の歴史はほぼ消え去り、現地を訪れるとまさに「つわものどもが夢のあと」の思いひとしおである。
(以上、大阪商工会議所図書館、滋賀県、旧永源寺町などの所蔵資料を参考にした。詳しくは中島伸男『近江鈴鹿の鉱山の歴史』=市立図書館=ご参照を。)
中島 伸男
(東近江市昭和町、1934年生まれ)
元・八日市市史編さん室長。現・野々宮神社宮司、八日市郷土文化研究会会長。著書、『鈴鹿霊仙山の伝説と歴史』・『翦風号が空を飛んだ日』(朝日ジャーナル・ノンフィクション賞入選)・『近江鈴鹿の鉱山の歴史』









