筑波大学体育専門学群4回生 森本真敏
●生い立ち
ちょうど一歳になる前あたりに先天性高音難聴と診断され、滋賀県立聾話学校(栗東市)へ入学した。物心がついた頃には、野球ボールとバットが僕のそばにあった。祖父・親父の影響でプロ野球選手になる夢を抱き、小学三年の秋、竜王野球スポーツ少年団に入団。しかし、入団するのに大変な苦労がともなった。
●社会的偏見と闘って
少年団も町役場も「難聴の子が野球をやって、怪我したらどうするのか」と危機感ばかりを募らせた。親父が自らの経験から「聞こえなくても野球はできる」と交渉してくれたが、断られた。「おまえは野球やりたいのか」。親父がすごい剣幕で、僕の意志を確かめたあのときの一言は今でも忘れられない。
二度目の役場訪問。やっぱり断られた。「教育長を呼べ」と憤る親父に、教育長は監督への直接交渉を促した。早足でグラウンドに向かい、図司増行監督やコーチたちと出会った。
他の少年はすぐ入団できるものを、僕は入団テストを受けなければならなかった。監督が心配していたのは、バッティングはともかく、守備。音が聞こえないと、周りの声も聞こえず、判断も難しい。
初めて親父以外のノックを受ける恐怖感でいっぱいだった僕は、飛んできたボールを全部受けようと覚悟を決めた。その結果、監督から入団許可が下り、年々積み上げた頑張りでレギュラーを獲得。中川裕貴選手(現中日ドラゴンズ)と、全国大会にも出場できた。
●別世界での孤独
しかし、野球を一度辞めようと思った時期がある。ちょうど小学四年の春。聞こえる人との接点が少なかった僕にとって、グラウンドは別世界だった。
訳のわからない口の動きだけで、みんな通じ合っている。大きく口を開けて話すか、手話でしかコミュニケーションがとれなかった僕は、ただボールを拾い、守り、バットを振ることがとても辛くなった。大好きな野球が嫌いになった瞬間だ。親父とキャッチボールをしたときの楽しい気持ちは、どこへ行ってしまったのか。わからなくなった。
練習日の朝、僕は自分の部屋の隅っこでずっと泣いていた。「野球の練習へ行きたくない」とオカンに言う。心配して駆け寄る親父が「どうした」と聞く。
コミュニケーションをとれないことが、僕はいじめられていると思っていた。その気持ちは周囲になかなか伝わらず、僕の心はどんどん膿が溜まっていくようだった。表現しづらい孤独感を打ち明けると、両親が監督の家へ飛んで行き話し合ってくれた。
監督がチームメイトに説明する。「森本は耳が聞こえないから」という部分だけ口が読み取れたとき、どこか心苦しかった。
心のどこかで、聞こえても聞こえなくても同じように練習も試合もしたい。差別はされたくない気持ちが強かった。これ以後、チームは変わり、口で通じないときは地面に書いて説明してくれたり、理解してくれるようになった。
これが友だちなんだ。初めて自分の障害を知る機会にもなった。「自分から言わなきゃ、相手もわからない」と。
●ハンマー投げに出会う
小・中学校と野球にのめり込んだ僕は、甲子園を目指して高校受験したが失敗。聾話高等部への進学が決まってからは、夢を見失い、どう生きていけばいいのか壁にぶつかった。
無気力な毎日に、当時高等部の保健体育担当だった松本智好先生が「何ぼんやりしている。高校落ちたんか。そら、残念やな」と声を掛けてくれた。少し間をおき「ハンマー投げやらんか」と言った。
陸上という新たな世界を知ることにとても新鮮さを感じ、まさに、暗闇だった心に暁が見えたような感覚を記憶している。
僕の興味と探究心に火が付くと、ブレーキは効かない。中等部卒業式の翌日には、高等部陸上競技部の門をたたき、練習させてもらった。けれど、入ってすぐにはハンマーを触らせてくれなかった。松本先生は「先輩たちと一緒に練習しとけ」と指示するだけ。
それから一カ月。「ちょっとおいでや、ほれ」と、先生からハンマーを手渡されたとき、僕はうれしくてすぐさま持った。ズンッ。なんて重いんだ。野球のバットはせいぜい七百グラムだが、高校用のハンマーは六キロ。バット約九本分の重さに匹敵する。投げる場所まで、フラフラしながら歩いた。
基礎から叩き込まれ、技術指導を基にした練習をすればするほど、記録が伸びる。滋賀県内学年別の大会で、初めて「個人種目」に出場。団体競技の野球しかやったことがない僕が、今までとは違うプレッシャーの中で試合に挑んだ。
結果は高校一年の部で大会新を出し、優勝。できすぎたドラマのようだと信じられなかったが、違う。今までの練習の過程があったからこその結果だと実感できた。
一年で四十五メートル、二年で五十五メートル、三年で五十八メートルを記録し、県高校記録を二十五年ぶりに塗り替えた。順調に上達していったが、その裏では未知の領域を何度も迷いに迷った。
●聴覚障害との戦い
聴覚障害者は、聴力を除いて体は健康な状態で、生活の中で聞こえないこと以外に困ることは少ない。スポーツでも同じようにとらえられていると思うが、各種目の動作は全て模範から学ぶ。いわゆる、やり方というもの。よく使われる「こう動いて、こうやってみる」といったように、雰囲気から学んでいく。
趣味や健康増進程度なら、この理論だけで誰でもできるだろう。しかし、僕がやるハンマー投げは、一回転で〇・五秒もない、四回転回っても二秒の世界。動きもバランスも重要だが、流れを決定する要因の一つ“リズム”が最も大切だ。逆に言えば、リズムがバランスと動きを決定付けるといっても過言ではない。
そのリズムに、僕は悩んでいた。健聴者なら、回りながら先生の声や合図などタイミングに合わせることができる。タイミングの理解からリズムが完成する。
一方、聞こえない僕は、動きに集中することで精一杯。そこで、先生がいつも僕の手にリズムを刻み、間を置かずにすぐ回る。何度も何度も、毎日毎日やった。少しずつではあるが、改善していった。これほど根気のいる練習もない。
何度も投げることで、少しずつ感触として理解しつつある。八年経った今でも、まだリズムはスムーズでない。未だに自分の補聴器から入る音や声は、本当の音なんだろうかと葛藤し続けている。もしかしたら、問題点はそこではないかもしれない。
●最後に
技術の習得は終わらない旅路に似ている。
自分が一度納得しても、改めて考えると新たな欠点が見えてくる。いかに、体に負担なく省エネで遠くにハンマーを投げられるか。
聞こえる聞こえないという問題を超え、夢の向こうにある最終地点は何なのか知るために、僕は今日もハンマーを投げる。
森本真敏プロフィール(竜王町山之上在住)
昭和60年5月28日生まれ。翌61年に滋賀県立聾話学校幼稚部へ入学し、高等部でハンマー投げと出会う。国立筑波大学体育専門学群に進学後も実力を伸ばし、憧れの室伏広治選手と同じ舞台で戦った昨年の日本陸上選手権大会で9位に入り、続く第1回世界ろう者陸上競技選手権大会(昨年トルコで開催)で優勝、念願の金メダルを獲得した。4年前の選考で涙をのんだデフリンピック(今年9月台北で開催)には、日本代表としての出場がほぼ内定している。
世界ろう記録(63・25メートル)保持者でもあり、「滋賀の競技レベルをもっと上げたい」と県内に練習拠点を移して後輩の指導にも熱心に取り組み、日本でも5人しか成し遂げていない70メートル超えを目指している。現在、プロ選手としての活躍の道を模索中で、競技以外に聴覚障害者などに関する講演活動も行っている。ブログ、(http://monta001.exblog.jp/)や動画(http://jp.youtube.com/montahammer)も更新中。










