「掩体壕づくりに参加して」 八日市郷土文化研究会「蒲生野」に紹介
◇東近江
昨年十一月、五個荘出身の小杉弘一さん(東京・神宮前在住、八十二歳)が、東近江市の布引丘陵に今も残る戦闘機の防空壕「掩体壕(えんたいごう)」を六十二年ぶりに訪れている。戦時中、掩体壕づくりにかかわった小杉さんは、親交を深める八日市郷土文化研究会の中島伸男会長の要請を受け、わざわざ東京から駆け付け、当時の思い出に胸の高まりを覚えたという。小杉さんは、同じ作業に携わった級友の助言や資料の提供を受け、同研究会発行の蒲生野40号に「掩体壕づくりに参加して」を紹介している。
昭和二十年五月一日、京都工業専門学校(現在の京都工芸繊維大学)建築家の二年生三十五人が学徒勤労動員令で関西各地の陸軍航空隊に配属された。実家が旧五個荘村だった小杉さんは、級友六人と共に下士官待遇の軍属として八日市航空隊に着任し、宿舎だった玉緒村小学校に寝泊まりしながら、掩体壕づくりに携わった。
特別作業隊で作った掩体壕は、次の三種類だったが、凹の字型に土手を築いた開放型掩体壕は他の作業班が勤労動員で築いたという。
【鉄筋コンクリート造ドーム型】 着任当時、屋根の防水モルタル工事は終わっていたが、ドーム内の型枠や足場は撤去されていなかった。布引丘陵には、戦争遺跡として二基が雑木林に残り、この型の掩体壕は、全国の陸・海軍の空軍基地に約百基が現存する。ドームの寸法は、間口二八メートル、奥行き二四メートル、奥の間口八メートル。
【木造格納庫型】 建築資材の不足から考案された。新興木構造りで短小木材を組み、ボルトで継ぎ合わせて大きな梁を架けた。この掩体壕は二基、着任前の四月に完成していた。六月に赤トンボ(初級練習機)二機が収められ、短小木材で作った大梁が美しかったことを覚えている。
【木造アーチ梁ドーム型】 建設作業にかかわった掩体壕(隼戦闘機一機を収納する大きさ)で六、七基が完成された。山ろく東側の松林の中にコンクリートの基礎が出来上がっていて、五月から松材の短小材を五枚重ねて積層のアーチ梁を、コマ型ジベル金具と五寸釘を打ち付けて作った。昔ながらの三ツ又という道具で積層のアーチ梁を人力で吊り上げて組み立て、野地板を斜に張りに釘打ちして強度を上げた。黒い防水紙を全面に張り、擬装のため土をかぶせ雑草を植え完成した。
筆者の小杉さんは、雨で土の重さが増し一基が壊滅する事故があったことから、文中で「このような脆弱な掩体壕に、虎の子の隼戦闘機を入れるのかと疑問に思った」と、当時を振り返っている。







