東近江市市長 中村 功一
◇東近江
私は、昨年の九月議会で、市長退任の意志を表明し、今期限り(二月二十六日)で引退いたします。旧八日市市時代から十四年余りという長きにわたり市政を預からさせていただくことができ、いささかなりとも、ふるさとの発展に足跡を残すことができましたことを、大変幸せに、また光栄に思っています。
その間、多くの市民の皆様、議員の皆様のご支援をいただきましたことに感謝申しあげます。
激動の二十世紀から二十一世紀へと、大きく変化していく社会とともに、市町合併をはじめ次々と押し寄せる市政の課題。これまでの多くの市政運営の中で、印象に残った取り組みの一端をその思い出とともにお話します。
政治生命をかけた蛇砂川改修
初めて八日市市長に就任するにあたって、まず心に留めていたのが、蛇砂川改修問題です。天井川で市内を蛇行しながら流れる蛇砂川は、いったん豪雨になると氾濫溢水し、沿川では家屋の浸水をはじめ、農地の冠水など甚大な被害を蒙り、流域住民は常に水害の危険にさらされていました。また、下流部に行くほど川幅が狭くなることから、流域全体の排水事情が極めて悪く土地改良事業の遅れの原因にもなっていました。
沿川住民の長年の悲願であったこの河川の改修は、同時に、琵琶湖に面しておらず、そのことが市街地での排水対策での大きなハンディとなっていた八日市市にとって、排水状態を改善し、計画的なまちづくりを可能にするための最大の課題でした。
この問題の解決策として、取り組みを進めていたのが八日市新川建設という大事業です。川のないまち中に新しい川をつくるというものですから、関係地域の皆さんからのご理解を得ることは大変難しい課題でした。事業着手から二十年を経ても、なお用地買収のめどが立っておらず、遅々として進まない状態でした。
こうした中、まちの将来に何とか悔いが残らないよう前に進めていかなくてはならない、との強い思いから、私は平成六年十二月一日、市役所への初登庁に先立って、真っ先に関係自治会長宅をお伺いし、ご理解とご協力をお願いしました。また、住民説明会では、「新川建設は八日市市の最重要課題であり、私の政治生命をかけて取り組む」との決意を訴えました。他の公務を差し置いてでも、蛇砂川問題に関係する要務を優先し、自治会長が交代される毎年四月一日の早朝には、関係自治会長宅をお伺いし、ご協力のお願いを重ねて参りました。市や県の担当職員も事業推進によく力を尽くしてくれました。
現在、新川建設の工事が着実に進められていますが、事業完了までには、まだ相当の歳月を要します。事業の進展に、ご理解とご協力をいただいた関係住民の皆さんや関係職員、また国の支援に心から感謝するとともに、これまで積み重ねてきた取り組みを振り返るとき、感慨深いものがあります。
「みどりの湖(うみ)づくり」
平成七年、初めて市長として真っ先に取り組んだのは、ふるさとを緑豊かな街にする「みどりの湖(うみ)づくり事業」でした。
琵琶湖に面しない唯一の市として緑の木々や草花が風にそよぐ姿を「みどりの湖(うみ)」に例え、みどりの増殖や保全を施策として位置づけたものです。早速、庁内に縦割り行政にとらわれない「花と緑の推進室」を設置。緑に関する業務を横断的に取り組むこととし、それに応える職員を配置しました。
設置当初は叱咤すれども動きが遅く不満もありましたが、それまでの役所的な上からのお願いや命令ではなく、市民の皆さんに自らの問題として取り組んでいただくように働きかけたことにより、自治会での継続的な花一杯運動や先駆的な緑の保全運動が立ち上がってきました。私も自治会で取り組まれた花植えに参加し、久しぶりに帰省された方から市内に花々が目立つと評価をいただくようにもなりました。
その一方で、私自身、記念植樹などにも取り組もうと指示したところ「植えることは誰にでも出来る、育ててこその植樹」と逆に具申されました。「花と緑の推進室は、市長の治外法権か」と苦笑したこともありましが、それはもっともなことであり、以後、市長として心することといたしました。
市内の豊かな緑は、それを守ってきた先人の努力の積み重ねがあったからであり、植えればよいというものではないことは自明の理なのですが、ややもすれば簡略な方法に流されやすい中で、専門の担当課を設置して取り組んだことは、市長としての業績の一つではないかと自画自賛しています。
保全した緑を、自然体験の不足していると言われる現代の子どもたちが自然に触れる場として利用すれば、豊かな情操を育むことにもなると考えていました。
そんな中、かつて琵琶湖研究所の所長でもあり生態学者としても知られている吉良竜夫氏が建部北町に残る市内最大の平地林を貴重な森として注目されていることを知りました。
そこで、まず生態系調査を実施し、その結果に基づき保全や活用方法を検討することにしました。調査結果で、貴重な森が人との関わりを失いその価値を失いつつある現状と、保全し活用のためには積極的に人が関わることが明らかになりました。
ここでもトップダウンでなく、市民の立場から保全活動に取り組むよう働きかけ、ボランティア団体「遊林会」の活動を平成十年にスタートさせるとともに、地権者の方々のご理解もいただき「河辺いきものの森」を整備することができました。
現在、日本中に誇りうる生きた施設として自然体験教育や野生生物の保全モデルになっていることは、みどりの湖(うみ)づくり事業の成果であり、八日市市長十年余の中でも記憶に残る大きな施策の一つと思っています。そして何よりも来訪者から「この森も立派だが、あなたの市には立派な職員がいますね」という言葉をいただき、うれしく思いました。
子どもセンターひばりの開設
市役所本庁舎裏から川合寺児童公園を抜けたところに、「児童生徒成長支援室子どもオアシス」があります。
前庭には、マメツゲで仕上げたカンガルーのトピアリー(樹木や低木を刈り込んで作成する造形物)が飾られ、子どもたちや訪れる市民の皆さんを温かく出迎えています。このカンガルーは、竜にも見えることから、子どもたちが「カン竜くん」と名付けました。カンガルーは、お腹の袋で子どもを愛情たっぷりに育てる動物として、子どもオアシスのシンボルになっています。
平成六年、八日市市長に就任した当時から、まちづくりを担ってくれる将来のある子どもたちを大切に育てていくことが、市政の重要課題であると認識していました。
いじめ、登校拒否など、当時から子どもたちを取り巻く環境は、大きな社会問題となっていました。その根底に見えるものは、ストレスをいっぱいため
た子どもたちの姿でした。そのような子どもたちが心身ともに安心して成長できるように、身近にいる大人たちがよりよい子どもの居場所を提供していくことが大切なことでありました。
そこで、子ども施策の推進調整を図る「青少年対策室」、適応指導教室を含めた教育相談事業を行う「子ども相談室」、新しい学力観に立った教育内容や指導方法について研究を進める「教育研究所」を設け、これらを総合調整し、子どもの健全育成に関する施策を進める発信基地としての機能を発揮する市立子どもセンター「ひばり」を県下で初めて設置しました。
開所してある日のことでした。同センターに通う子どもたちがプレゼントを持って来てくれました。とてもよく育ったおいしいスイカでした。
私の好物がスイカであることを知ってか、子どもたちがセンター敷地内の農園で育ててくれたもので、その味とともにその時の元気な子どもたちの顔が忘れられません。
将来、青少年施策の総合調整をどのように方向づけるかという子育ての新時代の課題に、同センターが担うものは非常に大きいものがあります。
この取り組みが、こども未来部や子ども未来夢基金の設置等、現在の本市のこども施策の発端として、大きな意味を持つものであったことを思い起こします。
合併を振り返って
平成七年頃から相次ぐ合併特例法の改正があり、十一年には地方分権一括法が公布される動きがありました。
平成の大合併と言われる大きな波が、これほど大規模なものになるとは予想していませんでしたが、直感的に市町村の置かれている状況や国の動向を見据えた時「避けて通ることが出来ない事業である。人口四万人程度の八日市市では行き詰まるのでは」と考えました。
十二年十一月二日の朝、安土・五個荘・能登川町による「東近江地域三町合併等研究会設置」の記事が新聞紙上に躍りました。全く驚きでした。
当時、すでに庁内では合併の検討を始めていましたので、こうした動きは、東近江地域の合併気運を一気に高める起爆剤になりました。
こうして県内でもいち早く合併に向けての動きを見せたこの地域は、その後、二年余りにわたって、いくつかの枠組みで検討や協議が鋭意進められましたが、結果としていずれも協議が整わず、白紙に戻ることになりました。合併の難しさというものをつくづく感じました。
しかし、各市町とも合併の必要性については認識しており、合併特例法期限内の合併を望んでいました。今度は、もう失敗は許されないとの思いから、協議会で議論をする前に議会中心に話し合ってもらい、ある程度の道筋をつけておきたいと考えました。
そして、十五年七月末には、八日市市・永源寺・五個荘・愛東・湖東町による東近江一市四町合併協議会を立ち上げました。合併協議が破綻する原因とされた「新市の名称、合併の方式、合併の期日、新市の事務所」については協議会設置前に十分な議論を交わしました。合併の方式は新設(対等)に決め、「八日市市」の名称がなくなることに淋しい思いもありましたが、新市名に既存の名称は使わないことにしました。どうしても町名を残したい町は、冠に旧町名を入れる工夫もされました。
合併協議は、四十二の協定項目、千六百もの施策事業の摺り合わせ、気の遠くなるような事務量でしたが、順調に協議を進めることができ、各市町の関係者、住民の皆さんに感謝しています。また、各市町の職員が実に短期間に精力的に取り組んでくれたと思います。
その後、能登川町と蒲生町から相次いで合併への参画申入れを受け、東近江市の市域が広がりました。
こうして平成十七年二月十一日、東近江市の誕生を迎えることができました。また、初代市長として重責をお預かりして、翌年一月一日には蒲生・能登川町を加えた新生東近江市がスタートを切ったのです。今から思っても、実に素早い対応と円滑な協議ができたのも、市民の皆さんの深いご理解の賜物です。また合併はそれぞれが歩んできた市や町の経緯を認め合い、大事にするとともにお互いに相手を思いやる心が大切だと痛感したものです。
圏域を越えた愛東・湖東両町との合併が果たせたのは、愛知川流域を生活圏とし歴史的にもつながりを持つ市町間でのイベント共催などの交流活動が大きな役割を果たしたものと思っています。
東近江市の一市六町の枠組みは、紆余曲折を経ましたけれども現在の形になって良かったと思っています。百年の大計の視点から考えたとき、市町村合併は今後のまちづくりの推進や足腰の強い自治体をつくるための手段として、苦労は多くても「やり遂げる」との強い決意で臨んだことがよかったと思います。
これからは、東近江市としての一体感の醸成にさらに努力しなければなりません。また、周辺市町との協調を保つことは、東近江市にとってたいへん大切であることを忘れてはなりません。






