『モーツァルト 父の夢、子の夢』(13)再び、マンハイムへ
父親にザルツブルクへの帰還を迫られたモーツァルトは、大いに思い悩んだ。パリという町は嫌いだったが、故郷ザルツブルクは、それに倍するくらい嫌いだったからだ。それでもこのままパリに滞在しても確実な見通しがないうえ、パリで後見人的役割を担ってくれていたグリム男爵が、モーツァルトのパリでの就職を不可能であると見限ったとなれば、帰還の流れにさおさすことはとうてい無理であった。不承不承モーツァルトは、パリを出た。だが「一路ザルツブルクへ」というわけにはいかなかった。どうしても帰りたくないのである。そこで彼は予測外の行動に出た。シュトラスブルクまでは、ほぼ直線のルートを進んだが、何とそこからルートをそれ、再びマンハイムに行ったのである。モーツァルトは、1778年11月12日の手紙で、「僕がマンハイムを愛しているように、マンハイムも僕を愛してくれているのです。そしてまだわからないけれど、やっぱりそのうち、ここで雇われるかもしれないって思っています」と報告、これがレオポルトの逆鱗に触れた。これだけ息子のことを思い、大司教にも頭を下げて復職の了解をとりつけ、今後の生活についてもあれこれ満足いくように段取りをしてやっているのに、息子はそのことがまったくわかっていない。
その挙句に、マンハイムで就職するという。もしそんなことが起これば、大司教の怒りは必定、父親の顔にどれだけの泥を塗るつもりなのか!怒り心頭のレオポルトは、すぐさま19日付けの手紙で「父さんは何を書けばよいのやら本当にわからない。そのうちに正気を失うか、衰弱死するかもしれない。…お前はマンハイムで雇われることを希望しているのか?雇われる、だと?それはどういうことだ?お前は、マンハイムであろうと世界のどこであろうと、いま雇われるわけにはいかないのだ。父さんも、雇われるという言葉を聞きたくもない。…肝心なことは、お前がいま、ザルツブルクに来ることなのだ。…お前のもくろみはすべて、お前の絵空事の計画を実行するためだけのもので、父さんを滅ぼすことになるのだ。」と書き送った。父親の激しい叱責に、モーツァルトは、またも反抗するすべを持ち合わせていなかった。友人たちとの別れがいかに辛かったかを父親に報告するのが精一杯で、重い足取りで最後の経由地、ミュンヘンに向かうのであった。
モーツァルト・バー「キール」
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