国政刻刻 武村正義さんを偲んで
武村正義さんがご逝去されました。湖国滋賀県にとって、また琵琶湖にとって大変な恩人です。深く感謝申し上げ追悼の言葉を捧げます。また金権まみれの自民党政治に終止符を打つべく、政治改革をすすめ、今の政党交付金制度や小選挙区制を実現しました。国政でも大恩人です。
私が初めて直接に武村さんにお会いしたのは1981年11月、琵琶湖研究所準備室です。ひょっこり武村知事が準備室に姿を現しました。私は大学院を終わり滋賀県職員として勤務した直後でした。武村さんは私のような新人職員にも気楽に話してくれました。
琵琶湖研究所の開設は武村知事の肝入でした。知事が一期目の1977年に大量の赤潮が琵琶湖で発生し、対策として石けん運動の住民の皆さんと連携し、日本で最初の富栄養化防止条例を1979年に作りました。そのプロセスで琵琶湖の水質や生態系、社会文化的な課題も山積しており、滋賀県独自の研究所をつくり滋賀県の環境政策のレベルをあげると決意され実現したのです。
世界湖沼会議は1984年に第一回を大津市で開催。海外から来られた方に琵琶湖の歴史や社会的役割を理解してもらえる場がないと気づき、琵琶湖研究所から琵琶湖博物館を提案しました。あまり外部には知られていないですが、琵琶湖総合開発計画で南湖の真ん中を通る計画の湖中道路を、陸側に貼り付ける判断をされたのも武村知事でした。湖中道路となっていたら南湖の環境はもっと悪化し、「魚のゆりかご水田」のような魚が遡上・産卵する田んぼ政策や世界農業遺産は実現できなかったでしょう。
滋賀の図書館ネットワークをつくりだしたのも武村知事の時代です。滋賀県の文化行政を引っ張ってきた上原恵美さんが、武村さんの意向をうけて、びわ湖ホールも含めた滋賀県の文化政策を牽引してこられました。
「ムーミンパパ」として愛され、カラオケが大好き、コロナ前にはよく誘われました。春日八郎がオハコ、私は八代亜紀の「舟唄」。今頃、なつかしいご家族に天国で会っているのではないでしょうか。心からご冥福をお祈り申し上げます…合掌。






