国政刻刻 なぜ、「国葬」なのか?
本年7月8日、安倍元首相は凶弾に斃れました。いかなる理由があるにせよ、銃弾によって人の生命を奪うことは決して許されることではなく、亡くなられた安倍元首相には心からの弔意を示したいと思っています。
しかし、その形式として、国葬を行うというのは違うと思います。
一般論として、国葬とは国家の儀式として国費で行われる葬儀のことですが、現状、その法的根拠や明確な基準がありません。国家の儀式であるにもかかわらず、国権の最高機関で全国民を代表する国会はその決定過程に何ら関与することもなく、内閣の恣意的判断によって決定されていることは問題です。
岸田首相は、安倍氏の首相在任期間の長さを理由としていますが、首相を長くやれば良いという話ではないことは明らか。短期間であっても立派な業績をあげた指導者はいくらでも列挙することができます。
外国の弔問者を多数迎える格式とも言いますが、そもそも法的根拠がないわけですから、「国民葬」や「内閣・自民党合同葬」でも警備体制等は変わらないし、弔問者数に大きな変化がみられるはずもありません。実際、同じ長期政権だった佐藤栄作氏や中曽根康弘氏は国葬ではないものの、多数の国家元首クラスが弔問されていました。国葬だろうとなかろうと、弔問者を派遣するか否かは、その国の独自の外交判断によってなされるものだからです。
国情の異なる外国はいざしらず、国民主権・象徴天皇制の現代日本において、政治家を国葬で送ることがふさわしいか否かを議論する必要があると考えています。どうしてもというなら、何かまったく新しい形式を創設し、民間の偉人をもその対象に含めて、国民大多数が惜しんで葬送できるようにするべきです。
1922年に亡くなった大隈重信は、首相を2度務めたものの国葬の検討対象ですらありませんでした。しかし、東京・日比谷公園で誰でも参列できる「国民葬」が挙行され、会場には約30万人が押し掛け、沿道には100万人が並んだといわれています。
かくあるべきだと思います。






