「ステージパパ、レオポルトの本音」 二度目のウィーン旅行(15)
――二度目のウィーン旅行はずいぶん苦労されたようですね。
レオポルト さんざんな旅でした。マリア・テレージアさまの皇女のご結婚は、皇女さまご自身が、当時ウィーンで流行していた天然痘の犠牲になり、祝賀行事は一転、暗い葬儀となってしまったのです。宮廷での演奏会はもちろん、その他お声をかけて頂いた演奏会は、すべてキャンセル。おまけに、ヴォルフガングとナンネルも感染。危険を察知して、ウィーンを脱出し、安全と思われる町まで移動したのですが、手遅れでした。幸い二人とも、重症化せず、回復してくれたのが、せめてもの幸いです。一家あげての旅行でしたから、出費はかさむ一方で、何とか挽回する手立てはないかと、そればかり考えてました。
――翌年1月初旬に、避難先のオルミッツからウィーンに戻られていますが、その後は、どうされていたんですか。
レオポルト まったくの八方ふさがりでしたが、沈滞した町の雰囲気が、演奏会の開催を阻んでいたことに加え、おそらく、ヴォルフガングの才能に脅威を感じたウィーンの音楽家たちが、いろいろ画策して、息子の活動機会の芽を摘んだんだと思っています。宮廷にも伺候しましたが、成果はありませんでした。ヨーゼフ二世からオペラのオファーをもらったのが、成果といえば、唯一の成果かもしれません。でも、それすら、私は成果と呼びたくないのです。
――そのオペラの作曲のことでは、関係者とひと揉めしたと聞いていますが。
レオポルト ええ、ひと揉めどころか、今思い出しても、当時の腹立たしさが蘇ってきます。正直言って、私は焦っていました。ザルツブルクからは、あまりの長逗留に大司教から給料の差し止め連絡が入り、その上、息子の才能も、どちらかというと「道化仕立て」でとらえられ、音楽的に正当に評価されていないと感じていました。そこへ、皇帝からの誘い水です。飛びつかないわけがありません。ただ、皇帝ご自身も、気まぐれで提案されたこと。実務まで関わりません。当然のことながら、興行権は、演劇関係者に委ねられました。そして作曲が始まると、予想通り、各方面から邪魔が入りました。一番腹が立ったのは、「息子の作曲は、じつは父親が書いたものだ」という非難です。歌手たちは、「こんな曲は歌えない」と言い出す始末。私は、このままこういう不当な息子に対する攻撃が、ウィーン中に広まれば、知らぬ間に「うそ」が「真実」として流布してしまい、ひいては息子の就職を困難にするばかりか、モーツァルト家の名声に傷がつくと感じました。こうなったら、私も後に引けない。覚悟を決めました。なり振りかまわず、ヴォルフガングを守るしかない。私だって、喧嘩はしたくありません。でも世間は、時に、どんなつかみ合いをしてでも、渡っていかなければならないのです!お分かりいただけますよね。
――思い出されるだけで、怒りが沸騰してくるようですね。では、次回は事の顛末を語っていただけますか。よろしくお願いいたします。
モーツァルト・バー「キール」
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