関西人になったモーツァルト 死こそが、僕らのほんまの幸せの鍵や(44)
1787年になると、モーツァルトの周辺に大きな変化が二つ起こった。一つ目は、『フィガロの結婚』の人気がウィーンからプラハへと飛び火し、当地で熱い歓迎を受けることになったことである。それは、さらにプラハで『ドン・ジョヴァンニ』の作曲を委嘱されるという、願ってもないチャンスを生み出すことになった。まさに、モーツァルトのオペラ作曲家としての面目を施す出来事であった。だが、二つ目は、その後のモーツァルト人生の行方に大きな影響を及ぼすものであった。それは、父親の病状が深刻であるという故郷ザルツブルクからの知らせで、すぐさま、モーツァルトは父親を励ます手紙を書いた。「たったいま、ひどくショックな知らせを聞いたんや。…おとーちゃんから『よーなってきたで』という安心の手紙を僕がどんだけ望んでいるか、言うまでもないと思うけど。…なあ、おとーちゃん、死は僕らの人生がほんまの最後にたどり着くとこやさかい、僕はここ数年、この人間の、まじ、一番えー友達に、慣れ親しんできたんや。ほんで死の姿はいつのまにか、ちっとも恐ろしゅーなくなったし、めっちゃ心を安らかに慰めてくれるものになったんやわ。そやし、死こそが、僕らの幸せの鍵やちゅーことを知る機会を神様が与えてくれはったから、そのことで神様に感謝してるんよ。僕はもしかしたら、もー明日はこの世にいんかもしれんなあ、と考えんと寝ることはあらへん…」モーツァルトは父親に、『死への覚悟』を語ることで、父親との関係を清算しようとしたのかもしれない。これまでモーツァルトの人生の指針であり続け、人生行路のひどい重荷でもあった父親が、この世を去ろうとしている。それが何をもたらすか、モーツァルトはまだ知らない。彼は『ドン・ジョヴァンニ』制作を理由に父親を見舞わなかった。レオポルトは5月28日、静かにこの世を旅立って行った。






