衆議院議員 武藤 貴也
7月1日閣議決定された集団的自衛権行使容認は、多くのメディアによって歪曲され、国民にその本質が伝わっていないように思われる。メディアによって伝えられるその要諦は「戦争するため」となっている。海外の戦争に自衛隊が巻き込まれるというものだ。集団的自衛権は「権利であって義務ではない」と反論しても、義務同然のように米国に付き合わされ戦争に巻き込まれていくと彼らは主張する。それならむしろ米国に追従しないように、自主防衛体制を整えるべきだと主張すべきなのに、そのような反対論者は皆無である。つまり「日米同盟」で米国に日本防衛の義務を課しておきながら、日本が米国に軍事的サポートをすることは、例え国連決議が出された武力行使であろうと、してはいけないと主張するのである。
私は今回の議論を見ていて「抑止力」という概念がすっぽり抜け落ちているように思う。なぜ「集団的自衛権」というものが国連憲章にも、単なる権利ではなく「自然権(如何なる法によっても制限できない生来固有の権利)」として盛り込まれたのかを考えてみる。そもそものきっかけは、1945年サンフランシスコ会議においてラテンアメリカ諸国が主張したことによる。その裏には米国によるラテンアメリカ進出があった。米国に対抗出来なかった諸国は、周辺諸国で協力しその抑止体制を整えようとした。一か国では米国との「勢力均衡」をつくれないため、いわば群れをなして米国を抑止しようとしたのである。つまりこれこそ「戦争にならないための集団的自衛権」である。
このことは全世界どの地域どの時代でも同様であった。集団的自衛権という言葉は無いが、防衛協力はいたるところでなされてきた。そして現代で求められている地域のひとつがアジアである。中国に対抗できない東南アジア諸国は、以前から日本と同盟関係を結び、中国を抑止したいと考えてきた。しかしネックとなったのは日本が集団的自衛権を行使できないと憲法解釈してきたことである。日本は国連加盟時、「自然権」としての「集団的自衛権」が明記された「国連憲章」を受け入れておきながら、憲法がそれを禁じていると主張してきた。しかしこのことはアジア諸国の日本への期待を裏切り、ベトナムやフィリピンなど中国の南下を今まさに招いているのは明らかだ。
日本が集団的自衛権行使を認め、アジア諸国との安全保障体制を整えることは、中国を抑止し、アジアの平和構築に必ず役立つ。政府・与党そして政治家は、世論やマスコミに対し逃げたりするのではなく、「戦争をしないためにこそ集団的自衛権が必要だ」ということを国民にきちんと説明しなければならないと私は考える。






